苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

人間の理性の頼りなさ(1)


   (サボテンの花。この形にこの花。見るたびに不思議。)


 人間の理性というのは、置かれた立場によって、働き方が違うのだなあと、原発事故調査委員会の話をニュースで聞いて思った。これまで民間の事故調査、東電の調査、国会の調査、そして政府事故調査の4種類が出ている。その中で、比較されていたのが国会と政府の調査だった。
 事故原因を総括的にいえば、国会事故調査は「人災だった」と断じている。東電と自民・民主両政権と経済産業省官僚と御用教授連、そして、実際に事故が起きたときの東電の無責任さと政府首脳の対応のまずさによる人災だというのである。他方、政府事故調は複合的要因によるとして、責任をあいまいにしている。
 国会事故調は規制当局(原子力安全・保安院)は「東電の虜にされていた」と批判しているが、他方、政府事故調は組織的・人員的余裕がなかったと、やはり責任をあいまいにしている。
 国会事故調は、津波が来るまえの地震による重要機器の損傷は、「なかったとは確定できない」としているのに対して、他方、政府事故調は「なかった」としている。
 この政府事故調の結果を見て、なんだこれなら、調査する前から結果はわかっていたじゃないかと、笑ってしまった。今回の事故の責任を取りたくなくて、かつ、原発を続けたい政府は、それに都合の良い結果を出しているだけのことである。
 むかしから、哲学の世界に主知主義主意主義という立場の議論がある。主知主義というのは、人間の知性は意欲にまさっているという考え方であり、主意主義は、意欲は知性にまさっているという考え方。人間は自分の欲を離れて客観的に知性を働かせてものごとを認識することができるというのが主知主義であり、人間はやりたいことがあればそれに都合よく知性も曲げられてしまうというのが主意主義である。事故調査の結果をみれば、現実としては主意主義なのだと思う。つまり、人は自分に都合がよいように、さまざまな理屈をこねまわすものなのだということである。
 
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」ヤコブ1:14