苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

秦氏、秦河勝、太秦

 日本古代におけるキリスト教伝来の件が、使徒2章の説教を準備していて、やはり気になったので、少々調べてみたことのメモ。


1. 日本書紀には、応神天皇の14年(4,5世紀)に弓月君に率いられて120県の民が帰化したとある。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔であるとされるが、史実かどうかは疑われている。また、あちこちで弓月君秦氏の棟梁にあたる人であったと書かれている。恐らく上記二つの記事を結び合わせて、弓月君秦氏の棟梁とされているのであろう。

「是歳、弓月君自百濟來歸。因以奏之曰、臣領己國之人夫百廿縣而歸化。」(日本書紀応神天皇14年)

追記>もちろん、日本書紀の記事の史実性には古いところは特に問題があり、応神天皇が実在したかも怪しい。戦後史学では推古天皇より前の史実性は一般に否定されている。だが日本書紀の目的である持統天皇と藤原家の正当化であるとすれば、逆に、それに資することのない事柄の記述は、事実である可能性が高いといえるかもしれない。

2. 資治通鑑によれば弓月国はその昔、天山山脈の西北にあった国だとのこと。(筆者は『資治通鑑』の当該箇所は未確認)弓月君が弓月国の王であったとすれば、なんらかの理由で中国・朝鮮半島を経由して、日本列島に渡来したということである。

3. この秦一族の中から出た秦河勝という人物は厩戸の皇子(聖徳太子)の助言者であり、秦河勝は京都に太秦寺(広隆寺)を建立した(602年または622年)。経緯としては、太子が「仏像を持っているが、誰かこれを祀る者はいないか」と言ったところ、河勝がこれを譲り受けて、蜂岡寺(太秦寺)を造ったことである。・・・仏像を譲り受けたことは、彼がキリスト者であったという説には不利である。
「冬十月己巳朔壬申、遷于小墾田宮。十一月己亥朔、皇太子謂諸大夫曰、我有尊佛像。誰得是像以恭拜。時秦造河勝進曰、臣拜之。便受佛像。因以造蜂岡寺。」(日本書紀推古天皇11年)

4. 秦河勝は、東國の富士川の辺の人、大生部多という人物が虫祭り神を常世の神として宣伝するので、彼を懲らしめた。そこで、時の人たちは、ウヅマサに関する歌を作った。
「ウヅマサハ、カミトモカミト、キコエクル、トコヨノカミヲ、ウチキタマスモ。(ウヅマサは神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神といいふらしたものを打ち壊したのだから)」
「秋七月、東國不盡河邊人大生部多、勸祭蟲於村里之人曰、此者常世藭也。祭此藭者、到富與壽。巫覡等遂詐、託於藭語曰、祭常世藭者、貧人到富、老人還少、由是、加勸、捨民家財寶、陳酒、陳菜六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人、取常世蟲、置於芿座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所﨟、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。其巫覡等、恐休勸祭。時人便作歌曰、禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳舉曳倶屢、騰舉預能柯微乎、宇智岐多麻須母。」(日本書紀 皇極天皇3年)
 この事跡は秦河勝がウヅマサを神の神と信じていたことを意味すると解釈する可能性はあろう。


5. 太秦(うずまさ)にはいくつかの古代キリスト教を思わせるような特徴がある。

第一は、太秦の「ウヅマサ」という呼び名は佐伯好郎博士によればイシュ・マシャ=イエス・メシヤの訛りと推測されている。

 ただし、反論もある。日本書紀雄略天皇の15年に、「しかし天皇は寵愛され、詔して秦の民を集めて、秦造酒公に賜った。公はそれで各種多数のムラ主を率いるようになり、租税としてつくられた絹・かとり(上質の絹)を献って、朝廷にたくさん積み上げた。よって姓を賜ってうつまさ(うずたかく積んだ様子)といった。」とある。機織(はたおり)ということばは秦氏が養蚕と機織の技術を日本にもたらしたからであるとは、よく知られたこと。

第二は、日本書紀皇極天皇3年の記事によれば、秦河勝の信奉した「禹都麻佐(ウヅマサ)」は「柯微騰母柯微騰(神の中の神)」とされている。
 反面、彼が仏像を聖徳太子から受けて、これを安置する寺を造ったというのは、彼がキリスト教徒であったという説には不利である。

第三は、「いさら井(伊佐羅井)」と呼ばれる井戸がある。この井戸の掘り方がユダヤ式だと言われるが、事実かどうか筆者は未確認。



追記>謎の多い秦氏に関しては諸説ある。ざっと知るには、Wikipediaが便利。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F