苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

聖化

     ヘブル12:5-11
     2012年5月6日 小海主日礼拝

 父なる神が計画し、御子が受肉・十字架・復活によって用意してくださった救いの祝福を、聖霊様が私たちに適用してくださいます。その祝福は、義とすること、子とすること、そして聖とすることです。今回は、聖とすること、つまり聖化についてみことばから学びたいと思います。

1 聖化にかんするさまざまな表現

神の子として新生した者が成長・成熟していくことを神学では一般に「聖化」と呼ぶのですが、「聖化」ということばは、用いられていなくても、中身として同じことを意味する表現が聖書の中にはいくつかありますので、まず父子聖霊の神との関係で整理しておきます。

(1) 父が完全なように、完全なものとなること。
 まずイエス様が、あの山の上で弟子たちにおっしゃったおことばからです。
「5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」マタイ5:44-48
 「天の父の完全であるように完全であること」、これが聖化です。しかし、全知全能の父なる神様の完全のような完全になれというのではありません。そんなことは無理です。そうではなく、自分の仲間だけに親切であるというような了見の狭い生き方をせず、自分を迫害するような敵をも愛するような、そういう愛における完全ということです。父なる神は、「神などいるもんか」というような恩知らずな人にも、太陽も雨も空気も無料で与えているでしょう。私たちも天の父を信じているなら、父の子らしく生きよというわけです。
天の父のように完全になるというと、それは、型にはめられた生き方をしいられる堅苦しく不自由なことと思われるかもしれませんが、実は、その逆です。なぜなら人間はもともと神のかたちである御子に似せて造られたのに、罪や悪魔にしばられて不自由になっていたのですが、そういう束縛から解放されてそれぞれに本来の自分を取り戻していくことだからです。

(2)主イエスに似た者とされていくこと
 また、イエス様は「わたしを見た者は父を見たのです」とおっしゃったように、天の父と御子イエス様は、瓜二つですからイエス様に似ることは、すなわち、父に似ることです。聖化とは「主イエスに似た者とされていくこと」なのです。私たちキリスト者は鏡であって、毎日その曇りが拭い去られるにしたがって、私たちではなくて、あの主イエスの素晴らしさが表わされていくのです。「3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」2コリント3:18
 私たちは福音書のなかで人となられた神であるイエス様が、祈り、さまざまな人と出会い、語り、どのように生きて行かれたかを知っていますから、具体的にどのように歩むことがイエス様に似ることかを知ることができます。イエス様に似た者になっていくというのは、自分の意志を伴わないことではなく、日々、みことばを味わい、お祈りをして、イエス様の御旨をさとって、「イエス様の足跡にしたがいます」という信仰の決断の連続のなかでなされていくことです。イエス様との交流のなかで行なわれる、弟子としての訓練を通して、聖化は進められていくということです。イエス様はおっしゃいます。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ルカ9:23
 そのように日々、イエス様に従っていくとき、私たちはイエス様に似た者とされていくのです。その行いが、心の底からなされたことであれば、内面の品性そのものが御子に似た者とされてきたということになります。
 
(3)御霊の実を結んでいくこと
 また、聖化をさらに御霊との関係で表現しているのは、つぎのみことばです。
「5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
 イエス様は私たちに「自分を捨て、自分の十字架を負って、そしてわたしについて来なさい」と命令なさるだけでなく、信じて従おうと決心する者のうちに聖霊様を満たして従う力をくださいます。そういう歩みを一歩一歩進めていくときに、私たちのうちにキリストの品性が育っていくのです。
ここで、御霊の実と表現されているのは大事なことです。今日種をまいて、明日見たらもう大きな木に実が実っているなんてことはありません。それはジャックと豆の木だけです。種をまいて水をやって、芽が出て、草取りをして、やがて育って、花が咲いて、ようやく実が実るものです。そのように、父と御子キリストに似た者となるには、時間がかかるのです。義と宣言されたことと、子とされたことは、一回的で決定的なことですが、聖とされることは一生涯かかって進んでいくことです。
 
(4)聖化についてのまとめ3点
 このように、聖書の中には聖化を意味する表現はさまざまありますが、3点整理しておきましょう。
第一点は父・子・聖霊の三位一体なる神様が私たちのうちにおいてなしてくださるみわざであるということです。人間が修行して自分の徳を積み上げるということではありません。
第二点は、同時に、イエス様が私たちに「従ってきなさい」とご命令なさっていることから分かるように、聖化というのは、無自覚的なことではなく、みことばに親しみ祈りをささげつつ歩む、教会生活・家庭生活・職場の生活などの具体的な場で、「私は、イエス様にしたがいます」という主体的な信仰の応答をして行くことに応じて進んでいくものなのです。
 第三点は、宣義、子とすることがともに一回的で瞬間的な決定であるのに対して、聖化は、継続的・漸進的だという点です。種をまき、植物が育ち、花が咲き、そうして実を結ぶのに時間がかかるように聖化ということは、時間がかかるのです。そうして、聖化の完成はイエス様に再びお目にかかる日に成ります。

2.試練と聖化

 神学書には、聖化において神様が私たちに恵みを与えてくださる手段として、みことば、聖礼典(聖餐)、祈りといったことが挙げられています。確かに、そのとおりです。私たちは御言葉を聞き、聖礼典にあずかり、日々祈りをする中で、イエス様の御旨を悟り、イエス様に従う決心を日々して行くものです。
 ですが、今日はもうひとつの恵みの手段をとりあげます。それは<神様は私たちを聖化するにあたって、しばしば試練を用いる>ということです。旧約聖書を開いて、アブラハムの生涯、ヨセフの生涯、ヤコブの生涯、モーセの生涯などを味わえば、それは歴然としています。この真理を一息に述べている新約聖書のことばをいくつか取り上げましょう。
「5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」ローマ5:3,4  
「1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」ヤコブ1:3,4

 そして、もう一つ。このヘブル書12章のみことばを今日は味わいましょう。
「12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。
  「わが子よ。
  主の懲らしめを軽んじてはならない。
  主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、
  受け入れるすべての子に、
  むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。 12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。 12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル12:5-11

(1)試練は神の愛のしるし
 このみことばが告げている大切な第一の真理は、試練は神があなたを子として扱っているしるし、神の愛のしるしであるということです。1節から8節には、そのことが丁寧に記されています。
 神様から見捨てられているならば、神様は訓練をしないでしょう。でも神様があなたを子として扱っていらっしゃるからこそ、訓練もあるのです。試練にあうときに、神様はわたしを見捨てたのだと思ってはなりません。事実は、その逆です。

(2) 服従して生きるべし
 このみことばが告げている第二のたいせつなことは、試練のなかで父なる神に服従して生きることを学ぶということです。そのとき、逃げ出してはいけないということです。これについて、ローマ書では「艱難が忍耐を生み出し忍耐が練られた品性を生み出す」といっています。忍耐がたいせつで、すぐに神様に従うことから逃げ出したり、投げ出したりしてはいけないということですね。
 忍耐しろといっても骨折したのに病院にいかないで我慢しろなどと馬鹿なことを言っているわけでもありません。言いたいのは、むずかしい状況があっても、「これは父なる神に従う道である、主イエス様にしたがう道である」と確信するならば、そのところにとどまるということです。

(3) みこころを求めること
 試練のなかで大事な第三番目のことは、試練をとおして、神様は何を私たちに教えようとしておられるのかを悟ることです。ある場合は、何かを戒めるためかも知れません。もしそうであると分かったならば、ごめんなさいと申し上げて、神様の懲らしめの鞭に自分をゆだねることです。ダビデはそのことを知っていました。
 しかし、ある場合は、ヨブの場合のように、罪や過ちに対する懲らしめということではなく、理解しがたいわけで与えられる試練である場合もあります。私はヨブ記がみな理解できたわけではありませんが、おそらくヨブ記が教えているのは、理由が分かろうとわかるまいと神をあがめよと言うことでしょう。・・・ですから、他の人が試練にあっているときには、ヨブの友人のように軽率にそれは天罰だなどと言ってはなりません。測るように測り返されることになるでしょう。ただ、自分自身としてはひたすら神様の前に謙虚になって、わけが分かろうと分かるまいと神様を信頼して待ち望むことです。

(4) のちに平安な義の実
 11節にあるとおり、確かにそういう苦しみの只中にあるときは、「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものです」。けれども、そこから逃げ出さないで、放り出さないで、神様に祈りながら忍んでいると、「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」大切なことばがあります。「後になると」ということです。平安な義の実が結ばれるには、やはり時間がかかるのですね。「実を結ぶ」という表現には、時間がかかるんですよという意味が含まれています。

結び
 父子聖霊の三位一体の神様による、私たちに対する聖化について学んで来ました。神様は私たちが、神様にひたすらに信頼して歩むご自身の子として成長し、成熟していくために、みことばを与え聖礼典と、そして試練を与えてくださいます。試練がやって来たときには、神様の愛が注がれていることを確認し、不信仰から放り出したり逃げ出したりせずに忍耐し、そうして、神様を見上げつつ結実を待ち望むということがたいせつなのです。