苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

都知事は知らないのか?・・・日本国憲法の件

東京都知事が、めちゃくちゃ言っている。また産経新聞がうれしそうに、それを記事にしている。

〜〜以下、引用〜〜
憲法、改正より破棄を」 石原慎太郎知事
産経2012.2.21 20:57 [石原慎太郎
 東京都の石原慎太郎知事は21日、都内で開かれた都議会自民党の「新春のつどい」に出席し、憲法について、「自民党に頑張ってもらって破棄したらいい。改正しようとすると、国会の議決がいる」などと述べ、改正よりも破棄すべきだとの見解を示した。
 石原氏は「占領軍が一方的につくった憲法を独立を果たした後ずっと守っている国がありますか。こんなばかなことをしている国は日本しかない」と強調し「自民党がもう一回政権とって、『憲法を破棄しようじゃないか。それで出直そうじゃないか』と言ってもらいたい」と自民党を応援。
〜〜以上、引用。〜〜〜


日本国憲法の出所(でどころ)は、明治の自由民権運動、格別、植木枝盛であることを、あの都知事は知らないのだろうか。知らないとしたら、ちょっと問題だし、知っていてあんなことを言っているとしたらもっと問題である。
 以前にも書いたけれど、日本国憲法は実質的にメイドインジャパンである。 日本国憲法の三大原則は、小学校で教わるように、<国民主権基本的人権の尊重・平和主義>である。
 国民主権基本的人権の尊重は、明治の自由民権運動植木枝盛から学んだ鈴木安蔵が起草した「憲法研究会案」が出所。
 平和主義(戦争放棄)は時の総理大臣幣原喜重郎マッカーサーへの提案による。
 これらをGHQが英訳・肉付けして、GHQ草稿日本国憲法が作られ、これが日本政府に「押し付けられ」邦訳された。当時、日本政府はこのGHQ草稿の背後に鈴木安蔵の「憲法研究会案」があったとは知らなかった。だから日本国憲法は本質的な意味でメイドインジャパンなのである。
 詳細は下記を参照。重要資料は国立国会図書館の「日本国憲法の誕生」のページで読むことができる。http://www.ndl.go.jp/constitution/

<本ブログ2010年2月10日の記事から抜粋>
(1)国民主権基本的人権の尊重は、明治の自由民権運動植木枝盛が源泉

 1945年10月4日、マッカーサーは、近衛文麿元首相と会談し、憲法の改正について示唆を与え、10月11日、幣原首相との会談において、「憲法自由主義化」に触れたので、幣原内閣は、憲法改正に対応することになった。松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が10月25日に設置された。だが、翌年2月4日松本委員会が提出した「憲法改正要綱」は、帝国憲法と本質的に変わるところがなかったので、マッカーサーに拒否された。

(参照:松本委員会「憲法改正要綱」http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/074shoshi.html

 他方、民間ではさまざまな団体・新聞が憲法改正案を発表していた(http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/revision.html#s3)。そのなかで、格別に現憲法に直接的影響を及ぼしたのが憲法研究会の「憲法草案要綱」であった。憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者、鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。

 鈴木が研究会の討議を経て、第一案から第三案を起草して、12月26日に「憲法草案要綱」として、内閣へ届け、記者団に発表した。鈴木はかつて京都帝大生の時代、1925年マルクス主義に傾倒して、京都学連事件治安維持法逮捕第一号となって投獄された。この出来事の後、鈴木はマルクス主義を日本に適用するのは急進的・非現実的と悟り、その後、明治の自由民権運動における憲法史の研究にこつこつといそしんできていた。「憲法草案要綱」を読めば、明治15年に起草された植木枝盛の『東洋大日本国国憲按』の影響が顕著である。植木枝盛板垣退助のブレーンであった。ほかに、土佐立志社の『日本憲法見込案』をはじめ明治初期、弾圧に抗して起草された二十余の草案、および1791年のフランス憲法、米国憲法ソ連憲法、ヴァイマール、プロイセンを参照したと記者団に説明している。

 同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇統治権を否定し、主権在民の原則を述べ、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めている。また基本的人権の尊重が具体的に述べられている。このように憲法研究会の憲法草案要綱は、日本国憲法の骨子となっているのである。(http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.html

 GHQは、これを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な報告書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。このように憲法研究会案はGHQの英文日本国憲法の原案であった。以下に、鈴木案のうち、国民主権天皇の位置づけ、基本的人権について述べられる「根本原則」のところを引用しておこう。

「根本原則

 1 日本国の統治権は日本国民より発す

 1 天皇は国政を親らせず国政の一切の最高責任者は内閣とす

 1 天皇は国民の委任によりもっぱら国家的儀礼を司る

  中略

 1 国民は法律の前に平等にして出生または身分に基づく一切の差別は之を廃止す

  中略

 1国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げるいかなる法令をも発布するをえず

  中略

 1国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す

  中略

 1男女は公的並びに私的に完全に平等の権利を享有す

 1 民族人種による差別を禁ず」

 (以下、議会、内閣、司法、会計および財政、経済、補足は省略)

 GHQは1946年2月13日、英文で書かれた日本国憲法草案を日本側に渡した。当時、政府はそれが憲法研究会案を背景としたものとは知らなかった。アメリカ製憲法を押し付けられた」と政府は思ったのだが、実は、その内容は日本製だったのである。GHQ草案→http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

 鈴木のおもな思想的源泉は、植木枝盛をはじめとする自由民権運動のなかで起草された数々の民間憲法草案であった。明治時代に国権主義と民権主義の論争があって、結局、国権主義が勝利を収めて、「外見立憲君主制」の大日本帝国憲法ができたのだが、敗戦後、ひとたび葬られていた民権主義が民主立憲君主制日本国憲法というかたちで復活してきたという歴史的流れである。

 植木枝盛憲法草案は右参照されたい。http://homepage2.nifty.com/kumando/si/si010515.htmlおよびhttp://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description14.html

 つまり、日本国憲法の、国民主権基本的人権尊重は、<植木枝盛をはじめとする自由民権運動の民間憲法案→鈴木安蔵憲法研究会「憲法草案要綱」→GHQ英文草案→日本国憲法>というプロセスで成立したのである。

 しかも、、GHQ側が近衛に提示した憲法改正に関する12か条のポイントには、議会権限の強化と天皇大権の縮小はあったが、「主権が国民に存する」という宣言がなかったことは資料的に実証されている。GHQ民生局は、憲法研究会「憲法草案要綱」第一条に主権在民の宣言を見て、はじめて目が開かれて、英文草案に早速採用したのである。(小西豊治『憲法「押しつけ」論の幻』の前半)というわけであるから、国民主権論はすぐれて日本製なのだ。

 家永三郎編『植木枝盛選集』(1974年、岩波文庫)の巻末解説には、植木枝盛から日本国憲法への流れがきちんと書かれている。

日本国憲法は、植木枝盛草案ときわめてよく似ている。主権在民基本的人権の保障、地方自治の確立、みなしかり。その平和主義は枝盛の『無上政法論』と精神を同じくする。男女同権、家の廃止を核心とする新民法は、枝盛の家制度改革論と寸分たがわない。枝盛の政治上、社会上の改革論は、日本国憲法体制の青写真であり、半世紀前に国民が望みながら実現しえなかった期待が、敗戦という不幸はまわり道をたどって実現したものと見るのは、決して強弁ではない。・・・(中略)・・・

 しかも、日本国憲法について言うならば、その原案となったいわゆるマッカーサー草案の作成に当たり、占領軍は日本人有志の憲法研究会の草案を参考としその内容をとり入れているのであり、かつ、その憲法研究会草案は、戦前におけるほとんど唯一の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵植木枝盛草案その他を参考にして起草したものなのであるから、日本国憲法植木枝盛草案との酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有するのである。このような事実にかんがみ、いわゆる戦後民主主義あるいは平和主義を、私たちは改めて近代日本の精神的伝統との関連において見直す必要があるのではなかろうか。」

 しかし、憲法研究会「憲法草案要綱」には軍備についての条項がなかった。

(2)平和主義(第9条)も日本製

 日本国憲法のもう一つの特徴である第九条戦争放棄条項はどこから来たのか。これは、史料からいえば、日本の首相幣原喜重郎の発案である。また、この憲法が発布されたとき、日本国民はこれを喜んで支持した。(以下は、伊藤成彦氏の「軍縮問題資料」1995年所収論文から略述。)

 一九四六年一月二十四日正午、幣原首相はマッカーサー元帥を訪ね、約二時間半会談をした。この会談の内容について、マッカーサーは一九五一年五月五日の米国上院軍事・外交合同委員会聴聞会で証言をしている。少し長くなるが引用しておこう。

 「日本の首相幣原氏が私の所にやって来て、言ったのです。『私は長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争をなくすことだという確信に至りました』と。彼は言いました。『私は非常にためらいながら、軍人であるあなたのもとにこの問題の相談にきました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないだろうと思っているからです。しかし、私は今起草している憲法の中に、そういう条項を入れる努力をしたいのです。』と。

 それで私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って、それは取られ得る最高に建設的な考え方の一つだと思う、と言いました。世界があなたをあざ笑うことは十分にありうることです。ご存知のように、今は栄光をさげすむ時代、皮肉な時代なので、彼らはその考えを受け入れようとはしないでしょう。その考えはあざけりの的となることでしょう。その考えを押し通すにはたいへんな道徳的スタミナを要することでしょう。そして最終的には彼らは現状を守ることはできないでしょう。こうして私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れたのです。そしてその憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的な感情に訴える条項があったとすれば、それはこの条項でした。」

 この会談については、日本側からの証言もある。幣原首相の友人枢密顧問官大平駒槌は「(幣原首相は)かねて考えた世界中が戦争をしなくなるには、戦争を放棄するという事以外にはないと考える、と話し出した。ところが、マッカーサーは急に立ち上がって両手で手を握り、涙をいっぱいためて、そのとおりだ、と言い出したので、幣原はちょっとびっくりしたらしい。」と回想している。

 幣原首相は外相時代、平和外交の旗手であった。ところがその後、日本は中国において「自衛」と称して侵略を続け日米開戦にまで暴走してしまった。その苦い経験に基づいて、明瞭な戦争放棄が必要と考えたのだろう。また連合国側の天皇処罰要求を前に、国体護持のためには、これ以外道はないと考えたという観測もある。他方、軍人マッカーサーは太平洋戦争の残酷さを経験し、かつ核兵器の登場という事態を見て、少なくともこの一時期、戦争の廃止以外には人類を滅亡から救う道はないと思い至ったのである。マッカーサーは、その後の朝鮮戦争の頃の動きを見ればわかるように、永続的に戦争放棄を維持し続けるほどの人物ではなかったのだが、この一時期、幣原発案の戦争放棄の理想に感激し、それが日本国憲法に刻み込まれるということになった。一種奇跡に近いタイミングだった。

 改憲派の人々のああだこうだと、マッカーサー、幣原の回想録発表の時期などから多くの推測交えて、幣原が9条を産んだという事実を否定したくて、「ためにする」反論をしていることは承知している。だが、文書的な証拠は憲法9条は国産であると語っている。以上のようなわけで、新憲法のもう一つの特徴である憲法第九条戦争放棄条項もまた、国産なのである。

まとめ

日本国憲法の三大原則は、<国民主権基本的人権の尊重・平和主義>である。
国民主権基本的人権の尊重という二つは明治の自由民権運動が源泉である。
平和主義は時の総理大臣幣原喜重郎による。
これらがGHQによって英訳され肉付けされて、GHQ草稿日本国憲法が作られ、これが邦訳された。日本国憲法はこういうわけで逆輸入品、つまり、実質的に国産品と言って良い。