厳しい日差しが、赤茶けたパレスチナの大地をじりじりと焼いていた。この日アブラハムの天幕はマムレの樫の木のそばにあった。彼はその入り口に腰掛けて、半月ほど前に受けたひさびさの啓示を思い出しながら、独り言をつぶやいた。
『サラに男の子が生まれると、神はたしかにおっしゃった。はじめはまさかと笑ってしまったが、今は信じる。・・・だがサライは信じてくれない。まあ信じられないのが普通か。ああ、だがこまったことだ。』
いくらアブラハムひとりが神の約束を信じても、妻も信じて同意してくれなければ、子をもうけることなどできはしない。サラはアブラハムに「あなたは九十九歳のお爺さん、わたしは八十九歳のお婆さん。何を今さら子どもを得ようなんておっしゃるんですか。もういいんですよ。あなた。」と言って、夫の手をやさしく握り返して、微笑んだ。
サラは傷ついていた。若い日、子を得るためにどれほど努力したことだろうか。けれどもどんなに食べ物を工夫しても、どんなに祈っても、結局、自分は夫アブラハムのため一子も産めなかったことが、サラの心の深い傷となっていた。今度こそという兆候が何度かあり、そのたびに失望して信じることに疲れてしまったということも、サラを臆病にさせていた。それに月のものがすでに去って久しい。今風にいえば、科学的に不可能な話である。
しかし、人間の努力や人間の知恵が尽きたところに神のわざが始まろうとしていた。
老妻の悲しげな微笑みを思い浮かべながらアブラハムがふと地面から目を上げると、三人の男が陽炎の向こうに、こちらを見て立っている。旅人であろうか。アブラハムは何か感じるものがあって、彼は三人を見つけるなり、駆けて行って、彼らの前にひれ伏した。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。」とアブラハムは口上を述べた。
実は、この三人のうち二人は御使いであり、なんとひとりは旅人に身をやつした主なる神であった。アブラハムは、しもべに水を持ってこさせて、大樫の木陰に三人を憩わせ、食事の用意を始めた。少しばかりといいながら、アブラハムは、妻サラには一斗以上もの小麦をつかってたくさんの甘いパン菓子を焼かせ、子牛をほふって料理し、ヨーグルトと牛乳も出し、族長である彼自ら三人の旅人に給仕をした。
「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とある。芭蕉は奥州へと旅立つとき、心細げに「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の泪をそそぐ。」といって「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と詠んでいる。穏やかな気候と治安のよさ比類ない江戸時代の日本においてさえ、昔は旅をすることには危険がともなっていた。まして、昔、パレスチナで旅をすることはたいへん危険なことであった。野獣・盗賊・飢え・渇き・激しい太陽と危険を数え上げればきりがない。旅人はよるべなき人だった。神が私たちを訪れるとき、威儀を正した王の姿をしては来られないし、富豪の姿をしてくるわけでもない。神が私たちの人生を訪れるときは、小さなよるべなき者の姿をしていらっしゃる。私たちは、その小さな、最も小さな人をどうもてなすかによって、天の報いを得ることに、あるいは失うことになる。あたかも水戸黄門がお忍びの姿、越後のちりめん問屋として来て、善人・悪人の正体を暴くように、神は小さき者の姿をしてやってきて私たち本性を暴かれるのである。アブラハムは幸いだった。彼は小さな者に仕えることを実践する義人であった。
食事が終わろうとするとき、旅人はアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいるのか。」彼は答えた「天幕の中に。」すると三人のうちひとり、神が言われた。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻ってくる。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」
サラはその人の背後、天幕の入り口で、このことばを聞いていた。彼女は心の中でわらった。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあるっていうの。それに主人も年寄りで。』
すると神はアブラハムにおっしゃった。「サラはなぜ『私はほんとうに子を生めるでしょうか。こんなに年をとっているのに。』といって笑うのか。神に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今頃、定めたときに、あなたのところに戻ってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」
神が「それに主人も年寄りで」というサラの内心のことばを省いていらっしゃるのが興味深い。アブラハムが気を悪くして夫婦のいさかいのもとにならぬように、配慮なさっているのである。
心の中のつぶやきを聞きとがめられて、サラは鳥肌が立った。彼女は打ち消して言った「いいえ。私は笑いませんでした。」
しかし、神は言われた。「いや、確かにあなたは笑った。」
サラはからだの震えがしばらく止まらなかった。だが、震えがとまったころ、サラの心のなかには久しく失っていた希望が湧き上がってきていた。『産まず女と言われてきた私も子を生むことができる。私にはできなくても、神がさせてくださる。』と。
人の力も、人の知恵も尽きたとき、神のわざが始まった。