幸運か絶望か
妻サライが宮廷に召し入れられてまもなく、エジプト王ファラオからアブラムに屋敷と多額の金品が下賜され、きのうまで難民だったアブラムは、にわかに多くの家畜を持つ大尽となった。エジプト人たちは、「美人の妹様のおかげでお大尽。なんと幸運な人よ。」とうらやましがった。いっしょにエジプトに下ったロトは、難民としてやってきたエジプトで思いがけず舞い込んだこの幸運に有頂天になっていた。
エジプトの空は相変わらず雲ひとつないが、アブラム自身は鬱々とし、また僕たちの噂に聞き耳を立てては苛立っていた。
「いったい誰のために、わしが妻サライを王にくれてやったと思っている。一族のためではないか。なのに、みんなでわしを馬鹿にしおって。貴様もわしを臆病者と心の中で笑っておるのだろう。」
アブラムは、しもべエリエゼルにそんな言葉を投げつけた。アブラムにしてみれば、飢えに瀕してこの地にのがれてきた一族が生き延びるためにこそ、妻を妹と偽り、彼女が大奥に連れて行かれるままにしたのである。ところが、その結果、これまで尊敬の目で自分を見ていた一族の者たちが、今は自分を軽く見るようになったように感じられた。しもべたちが小声で何事か話していると、自分のことを噂しているように思え、笑い声が聞こえると、みんなして自分のことをあざわらっているように思えてならないのである。「ご主人と来たら、いのち欲しさに、奥さんを大奥にやっちまったんだよ。見損なったよ。あれでも男かねえ。」と。
ファラオから届いた美酒を真っ昼間から浴びるように飲んでも、アブラムの舌には苦かった。夜がふけて床に着けば「今ごろサライはファラオの寝台にいるのか・・・。」と想像すると、アブラムは激しい嫉妬と怒りで胸をかきむしった。しかし、彼にはどうすることもできない。神の約束を捨ててこの地にのがれて来たアブラムには、もはや立ち直る気力も、妻を奪い返す手立てもなかったのである。
神の御手
ファラオの大奥は、しかし、サライを召し入れた日からたいへんなことになっていた。女房たちがいっせいにからだに変調をきたして、月の物が止まらなくなって枕を並べて寝込んでしまったのである。彼女たちはエジプト王の世継ぎを生み出すべき器であるから、ことは深刻だった。
ファラオの命令で宮廷の侍医が調べに入ったが原因は不明。ただ不思議なことに、ごく最近召しいれたカナンからやって来たアブラムという男の妹サライという女だけは、この病にかからずにいることが判明した。ファラオはこれは何かあると見た。そして最近召しいれたサライというセム人の女を呼び出して事情を問いただした。
「そのほう、何か余に隠し事があるであろう。悪いようにはせぬ。話してみよ。」
ファラオのことばに促されて、サライはことの次第を話しはじめた。
「恐れ入ります。私どもは先ごろ遠くメソポタミアの地から旅立ってカナンの地に来たばかりの者たちでございます。私どもの一族が移住してまいりましたのは、実は、棟梁アブラムに特別に主なる神からのご命令と約束が与えられたからなのでございます。『主の示す地へ行け、そうすれば、アブラムは大いなる民となり、世界中の民も祝福される』という途方もないお約束でございます。」
サライはここまで話すと息を継いだ。ファラオは、黙ってうなずいでさらに説明するように目で促した。サライは、それを受けてことばを続けた。
「そして、実は・・私はあのアブラムの妻なのでございます。しかも、旅立ちのときに与えられた主のおことばにはもう一つの約束がともなっていた、とわが夫アブラムから聞いております。それは、アブラムを祝福する者を主は祝福し、アブラムに害を与える者を主はのろうという約束だったとのことです。」
ファラオはかっと目を見開いて言った。
「それでは、この大奥に起こっている災厄は、余がアブラムの妻であるそちを召し入れたことに、アブラムを選んだ主という神がお怒りになっているということなのだな。」
「おそらく、そうでございましょう。」とサライは静かに答えると平伏した。
エジプト王は、宮廷を襲った災厄が神の御手によると知り、恐れおののき、アブラムを呼びつけて怒りに満ちた口調で言った。
「そちは余になんということをしてくれたのだ。なにゆえサライがそちの妻であると告げず、そちの妹であると偽ったのか。それゆえ、余はサラをわが妻として召しいれてしまったではないか。そのせいで、余の宮廷は恐るべき神罰をこうむってしまった。
もうたくさんだ。アブラム。一族郎党ひきつれてこのエジプトから立ち去るがよい。」
こうしてアブラムはエジプトを去ることになる。しかも、神からの災厄を怖れたファラオは、アブラムに与えた財産には指一本触れることなく、彼をエジプトから立ち去らせたのである。
出直し
妻サライが輿に載せられて送り返されて来たが、アブラムは一言も話そうとはしなかった。言うべきことばを持たなかったのである。目を合わせることさえできなかった。
エジプトで加えられた莫大な宝を携えて、約束の地カナンへの帰路をたどりながら、アブラムは胸の内でつぶやいた。『いったい、私はなんという臆病者だったのか。長年連れ添った妻を差し出して、我が身の安全を図ろうとしたとは。』そのつぶやきは、やがて神への祈りに変わっていく。「主よ。私はいつどこで道を間違えたのでしょうか。」
ふり返ってみれば、約束の地カナンに到着したとき、アブラムは主なる神の前に祭壇を築き、礼拝をささげた。そして、神に導かれてこの地まで来たアブラムは、これからも神のみことばに従うことを誓ったのである。ところが、約束の地での生活に慣れるうちに、アブラムはなにかと忙しく、礼拝をおろそかにするようになった。ちょうどその頃、飢饉がこの地を襲った。アブラムは慌てふためいて神にうかがいを立てることもせず、また神の約束も忘れ、この地の人々と同じようにエジプトに下ってしまったのだった。神のみこころを尋ねず、この世の人々の知恵にしたがった時、アブラムは過ちを犯したのである。
エジプトから戻ったアブラムは、カナンの南部ネゲブに到着しても、そこに留まらず、さらに旅を続けて、北のべテルまでやってきた。「そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。そのところでアブラムは、主の御名によって祈った。」とある。アブラムは原点に立ち返って、出直すことに決めた。神とともに始めた新しい人生の旅だったのに、神のことばを待たず、自分勝手に先走ってあやまちを犯し、長年連れ添ったたいせつな妻を裏切ってしまったのだから、ゼロから出直すほかない。
アブラムは石を積んだ祭壇の前にひれ伏して、長く長く祈った。「主よ。私はあなたの約束を捨て、妻を裏切り、大きな罪を犯しました。それにもかかわらず、あなたは私をあわれんで妻を救い、我らをこの地に戻してくださいました。」悔恨の涙がぽたぽた落ちて赤茶けた地面を黒くぬらした。
長い祈りが終わって立ち上がったアブラムの胸にうちには、久方ぶりに平安と喜びと力が戻ってきていた。忙しさにかまけて、神への礼拝をおろそかにしているうちに失ってしまっていたあの平安であった。父祖の家を出て、神を中心に生き始めたときに与えられたあの喜びと力だった。
ふり返ると、そこにサライもひざまづいていた。彼女の目も濡れていた。アブラムは言う。
「サライ。すまない。出直したいのだ。」
妻は微笑んで、静かにうなずいた。