苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・XXVI 権威と服従


 大洪水で洗われ荒涼とした大地を見回して、ノアは「私たちは食べていけるのだろうか」とふと不安を抱いたかもしれません。ですが、「いや、ここまで生かしてくださった主が、私たちを飢えさせるようなことは決してなさらない」と信仰を奮い立たせました。主はそんなノアに対して、肉食にかんする許可をお与えになります。「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」(創世記9:3)
そして、ノアとその家族は地を拓いて田畑を作りました。やがて季節が訪れると畑では、多くの作物が実をならせました。それは、「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」(同8:22)と約束された主のご真実のゆえです。

1 服従の質が試される

さて、ノアはぶどう畑を作りました。季節になると、畑はたわわな房がなり、甘い香りがあたり一面にただよっています。八人家族では、食べ切れるものではありません。そこでノアは、干しぶどうにしたり、搾ってジュースにします。皮袋の中のぶどう汁は何日も置けば自然発酵して、アルコール度数の低いぶどう酒になってしまいます。
主から大洪水の予告を受けて、不敬虔な人々の嘲りの中で箱舟建造を続けた日々、いよいよ大洪水となって箱舟内で動物たちの世話をし続けた極度の緊張と労働の日々、箱舟から出て後、食料を得るために開墾をして日夜働き続けた日々の後、さすがのノアも気が緩んだのでしょう。ぶどう酒に泥酔して、素っ裸で天幕の中で寝入ってしまったのです(同9:21)
このときでした。カナンの父ハムが、「父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた」とあります(同9:22)。いつも神を畏れて敬虔で威厳に満ちている父親が、泥酔してあられもない姿をさらしているのを見たとき、末息子ハムは、父親をあなどり、嘲りの対象としたのでした。ハムは、「おい。セムヤペテ。おやじが酒を食らってみっともない格好して眠っているぜ。神のしもべがいいざまだ。」とでも言ったのでしょうか。
これを知ったセムヤペテはどうしたでしょう。彼らはハムといっしょになって父親を嘲るのではなく、むしろ心痛めました。心痛めて、神のしもべである父の恥を覆うために、着物を着せ掛けたのでした(同9:23)。
神の立てた権威者が、その権威にふさわしく立派に振舞っているときに、彼を敬い従うことはたやすいことです。しかし、権威者が権威にふさわしくないみっともない姿をさらしてしまったときにこそ、その権威の下にある人々の服従の質が問われるのです。神が立てた権威であるゆえに、神を畏れて権威者を敬っていたのか、それとも、ただ単に偉い人だから、叱られるのが恐ろしいから、あるいは保身のためにというような理由でその権威者に従っていたのかがテストされるのです。神を畏れていたセムヤペテは、その信仰のゆえに、神が彼らの上に立てた父ノアを敬っていましたが、ハムはただ単に人間的な思いで父ノアを敬っていたにすぎなかったことが判明してしまいました。
やがて、ノアは酔いからさめると、末息子ハムが自分にしたことと、セムヤペテが自分にしたことを知ると、セムヤペテを祝福し、ハムの息子カナンをのろいました(同9:25)。このとき、なぜハム自身でなくカナンが呪われたのか理由は定かではありません。おそらくノアを侮辱したこの事件にはカナンが絡んでいたのではないかと思われます。他方、父の恥をおおったセムヤペテは祝福されます(9:26.27)。
ノアの体たらくのせいでハムとカナンが罪を犯したのですから、人間的な見方をすればノアはひどいなあと感じますが、ノアは、この時、預言者として神からことばを語ったのです。
 
2 権威と服従

 これと類似した事件は、モーセに授けられた権威をめぐって起こっています。女預言者ミリヤムはモーセが弟のくせに民の指導者として振舞っていることが気に食わなかったのでした。そこで兄弟アロンも誘って、クシュ人の女を妻としていることに関してモーセを非難し、さらに言いました。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」(民数12:2) 主はお怒りになりました。「なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」と主はおっしゃって、ミリヤムを打ちました。ミリヤムはツァラトに犯されて七日間宿営の外に締め出されます。
 モーセはもう一度この種の反逆を経験しています。コラの反乱です。「彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。『あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、【主】の集会の上に立つのか。』」(民数16:3)コラたちの言ったことは、一見、もっともなことに聞こえます。しかし、それは神のみこころに反したことでした。そして、神様はただちにコラ!と彼らを裁いて、地を割ってこの反逆者たちを呑み込ませてしまいました。神は忍耐強いお方で、民の犯す個々の罪については、何度も何十度もこらえてくださいますが、この種の、神が立てた権威を侮る反逆に対してはたいへんすみやかにさばきを下されることに気が付きます。それは、神の民を家にたとえると、個々の罪を犯すことは窓ガラスを割ったり壁に落書きしたりすることにあたりますが、権威を侮ることは柱を斧で切り倒すことに等しいからであろうと思います。
 神はご自分の民を導くにあたって、ある人に権威を授け、その権威の下に置かれた人々には権威を敬うことをお求めになります。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」(ヘブル13:17) あなたの上に立てられた権威者はかならずしも常に立派ではないかもしれませんし、あやまちを犯すかもしれません。その時、権威の下にある人の服従の質が試されます。つまり、権威ある人がただ立派だったから、その人を敬って従ってきただけなのか、それとも、その権威者を立てた神を畏れているので、従ってきたのかがはかられるわけです。セムヤペテは神を畏れて父を敬ってきたことを証明して祝福を受け、ハムはただ単に人間的な理由だけで父にしたがってきたことをその行動で証明してのろいを受けてしまいました。
 もうひとつ類似のことをあげると、サウル王のもとにいたときのダビデです。サウル王は民がダビデをほめそやすのを聞いて、彼に嫉妬して、殺害しようとしました。ダビデが命からがら逃げ出して部下たちとともに洞穴の奥に身を隠していましたら、ダビデを追跡してきたサウル王は、それを知らずこの洞穴に用を足しに来ました。悪臭が洞窟に充満するなかで、部下たちは鼻をつまみながら、鼻声でダビデにささやきました。「今こそ、【主】があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取ったのですが、ダビデは、このことについて心を痛めました。そして、ダビデは部下に言いました。「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。彼は【主】に油そそがれた方だから。」(1サムエル24:1−7参照)このように振舞ったダビデを、主は祝福されたのはご存知のとおりです。ダビデは主を畏れて、主の立てた王を討つことを避けたのでした。

他方、神は、ご自分が権威を授けた人に対して、神に対して忠実であることと、託された民を支配するようにではなく、自ら模範となって導くことを求めておられます。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(1ペテロ5:2,3)
 また、誰が一番偉いのかと議論している弟子たちに対して、主イエスはこう戒められました。「「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:42−45)神から人々を導く権威を授かった人は、謙遜に、自分のいのちを与える覚悟をもって、人々を導かねばなりません。

 私たちはそれぞれ置かれた場で、家庭の中で、教会の中で、社会の中で神が立てられた権威を認識することが必要です。神は夫に妻に対する権威を授け、親には子に対する権威を授け、教会の指導者には信徒に対する権威を授けておられます。また、自分が誰かに対する権威を授かっていると自覚しているならば、神を畏れ愛をもって自分に託された人々に仕える心をもって導くべきです。権威の下にある者は、神を畏れて権威ある人に従うべきです。これが祝福ある人生の秘訣のひとつです。「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です。」(エペソ6:2,3)