苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

しかし、ノアは

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、 6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。 6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。 6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
  6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。
  6:9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 6:10 ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。
6:11 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 6:12 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。
(創世記6章1−11節)

 アダムに始まった人類は地上に増えていった。だが、アダムの原罪が、その子孫たちに継承されていたから、人類の増加はすなわち罪の増加を意味していた。その時代の風潮は、
 第一に「神の子ら」が「人の娘たち」と、神のみこころには無関心で、ただ自分の好みで結婚をするようになったことだった。「神の子ら」とは、敬虔なセツ族の若者たちを意味し、「人の娘」とは、創世記4,5章からの文脈から、不敬虔なカイン族の娘たちを意味していると解すべきだと考える。
 第二に、そうした結婚から勇士、名のある者が現れた。彼らの出現の理由は、俗化された向上心・理想主義ではなかろうか。今の日本でも、「若い日は教会にも通ったんだけどね。」「おふくろはクリスチャンだけどね」という政治家の比率が異様に高いのと同じ理由ではなかろうか。
 第三に、地上に人の悪が増大し、心のはかることがことごとく悪に傾くようになった。もはや何が善であり、何が悪であるかが、逆転してしまった。どの時代のキリスト者たちも同じような感想を抱いたのかもしれないが、現代社会を見回すと、なんだかノアの時代の風潮によく似ていると感じないではいられない。

 そういう時代のなかで、「しかし、ノアは主の心にかなっていた」。直訳すれば「主の目の中に恵みを見出した」である。人間の都合がすべて、人間の快楽がすべて、人間の知恵がすべて、といった時代風潮のただなかに置かれながら、神を畏れて生きることができたのは奇跡、まさに恵みだった。