苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・X 下剋上

1 からだの中で

 「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世3:7)
善悪の知識の木の実を食べたとき、アダムと妻は裸を恥じて性器を隠しました。神に従順であった時、性器は意志の統御の下にあって正しく機能していましたが、アダム夫婦が神に反逆したとき、性器は意志に反して勝手に振舞うようになったからです。下位にある肉体が、上位の意志に反逆するという、人の内面における下剋上です。
人は自分の意志で肉体を制御できなくなりました。アウグスティヌスはこの事態を「不従順が不従順という罰をもって叩き返された」と表現しています(『神の国』14:17)。神への不従順な意志が、肉体の不従順という罰を受けたのです。それ以来、人は、意志と肉体の相克のゆえに肉欲主義と禁欲主義の両極端を右に揺れ、左に揺れています。

2 家庭の中で

 現代は、家庭の中で夫と妻の間に上下関係があるとか、親と子どもの間にも上下関係があるなどというと、時代遅れの差別主義者だと袋叩きにされてしまいそうな世の中です。けれども、聖書はどう教えているでしょうか。
親子関係について、聖書は「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。」(エペソ6:1)と命じています。主は、親に子どもを保護・監督する任務と権威を授けていらっしゃいます。
また、聖書は妻たちに次のように命じています。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)主は夫に、妻を愛し導く任務と権威をお与えになっているのです。
ただし夫が暴君でよいと言っているのではありません。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)とあるように、夫は神から授かった権威を、キリストのような自己犠牲の愛をもって用いなければなりません。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:43)
妻が夫に従順であれば、夫は妻を愛しやすくなり、夫が妻を愛をもって導けば、妻は夫に従順でありやすいでしょう。そこで、結婚を考えている女性に勧めたいのは、「尊敬できる人を夫として選びなさい」ということです。尊敬していない人に従うことは難しいからです。男性としては、みことばにしたがって尊敬に値する人となるように自己訓練することがたいせつです。
 ところが、人が神の権威に背いたとき、夫婦の秩序は異常を来たしました。神は妻に次のようにおっしゃいました。「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」(創世3:16)ここでの「恋い慕う」ということばは、第四章における神のカインに対する警告の中でも用いられていることばです。神は奉献物のことで罪を犯したカインに対して警告なさいました。「罪は戸口で待ち伏せしてあなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」と。罪が悪女に譬えられています。これは言い換えれば、罪はあなたをとりこにしてあなたを支配してしまおうとしているぞという意味でしょう。ちょうど悪女デリラがサムソンを誘惑し、彼の力の秘密を聞き出そうとしたような恋い慕いかたといえばいいでしょうか。そのように、堕落後、妻が夫を恋い慕うというのは、妻は夫の自分に対する権威を認めず、逆に自分の思うままに夫を操りたいという欲望を抱くようになってしまったという意味であると理解すべきでしょう。夫婦の間にも、下剋上が生じたのです。
しかし、妻が夫を支配しようとすればするほど、いきおい夫は「俺を馬鹿にするな」と暴君的になりがちです。それでももし妻が夫の権威をないがしろにすれば、そのうち夫は「君の勝手にすればいいさ。」と無責任になってしまいます。<愛と従順>という夫婦関係は、<暴君的支配と奴隷的服従>あるいは<無責任と不従順>という関係に変質してしまったわけです。

3 自然と人間

さらに、自然界も人間に対して反逆するようになりました。神はアダムにおっしゃいました。「土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」(創世3:18)
 本来、人間には、神の権威の下で、善い王として自然界を支配する務めがありました。「神は彼らを祝福された。・・・地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」」(創世1:28)けれども、神の権威を拒否した人間は、自然界から王としての権威を拒否されたのです。「不従順が不従順という罰をもって叩き返された」のです。いばらとあざみ、病害虫は農夫を苦しめ、野獣たちは人間を襲い、微生物は変異して病気を発生させるようになりました。
 人間はこうした自然の猛威に対して長い期間なすすべがなく、ひたすら自然界のもろもろのものを神々として恐れて拝むようになりました。雷に震え上がり、太陽を拝み、氾濫を恐れて川の神の祠にひざまずき、手当たりしだいあらゆる物を神々として礼拝するようになってしまったのです。
しかし、ここ二百年ほど前から、人間は文明の力で自然界を圧倒するようになり、今度は自然界を暴君的に支配するようになりました。しかし、そうした暴君的な文明のありかたが環境破壊を起こし、いまや地球は危機的状況になっています。

4 権威と服従
 今日私たちが直面している地球環境の破壊という大問題も、家庭崩壊や人間の内面の抑えがたい肉欲にまつわる苦悩も、その根は同じ罪であると聖書は述べています。それは人間が思い上がって創造主の権威に従うことを拒否した罪です。
現代では権威とか服従ということば自体、忌み嫌われる風潮が強く、むしろ反逆者が英雄視される時代です。しかし、キリスト者としては、御前にへりくだって、敬うべき人を敬うように生き方を変えることが必要です。
「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」(ペテロ2:17)