苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・Ⅸ いちじくの葉と皮衣

1 いちじくの葉

 「人間が他の動物と違う点はなんでしょうか?」と問えば、模範的読者は「それは人のみが神の像として造られたことであり、神の像とは知・義・聖です。」とお答えになるかもしれません。大正解です。でも、今回はもっと身近で目に見える人間の特徴について学びましょう。それは、人だけが着物を着るという点です。最近はペットブームで服を着せられた犬を見かけますが、あれは人によるお仕着せにすぎません。
 「ミノムシはどうですか。」という人がいるかもしれません。ですが、ミノムシが着物をつけるのと、人間が着物をつけるのは目的が異なります。ミノムシにとって着衣は風雨や日照りや外的から身体を守るためでしょうが、人間にとって着衣の第一義的な目的はそうではありません。それは、常夏の島に住む人々でも、ごく一部の裸族は例外として、みな腰に覆いを着けることからわかります。
なぜ人間は腰覆いをするのでしょうか。人間の着衣の習慣の始まりについて、創世記は次のように語っています。
 「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世3:7)
 人は裸を恥じるのです。それは、メタボのおなかが格好悪かったからでも、胸が洗濯板だったからでもありません。もしそうなら、おなかや胸を隠したでしょうが、実際に彼らが隠したのは腰でした。彼らは性器を隠したのです。アウグスティヌスは『神の国』第十四巻で、性欲との関連でいちじくの葉を解釈しています。以下、その記述を紹介しましょう。
神に反逆する前、最初の夫婦は、お互いに裸を恥ずかしいと思いませんでした。それは、彼らが自分たちの裸に気づかなかったからではなく、裸がまだ恥ずべきものとなっていなかったからです。というのは、堕落前は情欲が彼らの意志に反逆して、性器を動かすようなことがなかったからです。ちゃんと時と場合と相手をわきまえて、自分の意志で性器をコントロールすることができたのです。
しかし、人が神に反逆し、神の恵みが取り去られたとき、それまで意志の統御に服していた性器は、情欲に捕えられて、本人の意志に反して振舞うようになってしまいました。以来、人は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)という戒めにおののき、「私には自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(ローマ7:15)と嘆かねばならない者となってしまったのです。
人間は、サタンに誘惑され、神に背を向けて「神のようになれる」と期待して善悪の知識の木の実を取って食べました。けれども、その結果は、自分自身の性器さえもコントロールできない惨めな者に成り下がってしまうということでした。人は肉欲の奴隷になってしまったのです。だから最初の男女は狼狽し、いちじくの葉で性器を隠すようになり、その子々孫々も着衣という習性をもつことになりました。
けれども、いちじくの葉など、日差しの下で数時間もすれば枯れて、また恥が露出してしまいます。いちじくの葉は、自力で己が罪と恥を覆おうとする自力救済の偽善的努力のむなしさを象徴しているといえましょう。

2 皮の衣

神はいちじくの葉に代えて、獣を殺して作った皮の衣を彼らに用意してくださいました。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世3:21)
この個所は、いわゆる神人同形論のように映るので、それを警戒して、「神が、あたかも毛皮商人や仕立て屋のように、獣を殺し毛皮をなめして縫い合わせて皮の衣を作ったということではなくて、そうすることを人間に許可したという意味である」という生真面目すぎる聖書注解が多いようです。
しかし、このような解釈では、「神が彼らのために皮の衣を作って、彼らに着せてくださった」という記述に現れた驚くべき神の恵みが見えなくなってしまいます。創世記第三章は、「そよ風の吹くころ園を歩き回られる神」というぐあいに、あたかも浴衣に下駄ばきで団扇を片手に散歩していらっしゃるような風情で神のふるまいを表現しているのですから、この個所もまた神が手ずから、罪に落ちて裸を恥じている罪人夫婦のために皮衣を作ってくださったという表現を素直に読み取ればよいのです。いちじくの葉が自力を表すとすれば、皮の衣は神による恵みを表現しています。
では、いちじくの葉と皮衣はどうちがうでしょうか。「鬼のパンツはいいパンツ♪強い♪強い♪トラの毛皮でできている♪」という歌のように、皮衣はすぐに枯れるいちじくの葉に比べればうんと丈夫で長持ちします。それは神の恵みの永続性を象徴するといえましょうが、それ以上に、皮衣を作るためには生き物の血が流された点が肝心です。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(へブル9:22)とあります。神が罪人に着せてくださった皮衣には贖罪の祭儀的意味が読み取られるべきでしょう。
ここにいけにえの祭儀と、その彼方のキリストの贖いの予型を読むのはうがちすぎだと思うむきもあるでしょう。しかし、文脈をじっくりと見ますと、読み込みとはいえません。このときアダムとエバのために史上初めて動物の血が流されたのです。というのは彼らはまだ肉食をしていなかったからです。その血を流された動物の衣で自分の裸の恥が覆われたとき、彼らは大きな衝撃とともに、自分たちの恥を覆うには動物の血が流されねばならないのだと認識させられました。神は「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世2:17)と言われたのに、殺されたのは自分ではなくこの動物であり、その動物の皮をもって恥が隠されるという体験をして、その動物が自分の身代わりとなったということを悟らなかったと考えるほうがよほど無理な解釈です。
罪深い裸の恥をおおう衣の意義は、創世記を記したモーセの祭儀律法における祭司の衣に継承されていきます。祭司が聖なる神の前に出るために、特別の衣を着ることが求められました。特に、「裸をおおう亜麻布のももひき」(出エジプト28:40-42)という表現があります。
そして、新約にいたってキリストが私たちの罪のために血を流して死なれ、その血潮によって私たちの罪と恥が覆われたのです。人は自前の義ではなく、神がキリストにあって恵んでくださった義によって神の御前に罪を赦されます。私たちは自力の道ではなく、恩寵の道で救われます。私たちは自前の偽善の衣を捨てて、「キリストを着る」(ローマ13:14)べきです。王子の婚宴に招かれた客が追い出されたのは、会場入り口で与えられた礼服を拒否して自前の服を着て席についていたからでした(マタイ22:11-13)。
神の御前では、自分の過ちを言い訳や偽善で取り繕っても無益です。いちじくの葉は強い日差しにしおれてしまいます。神のくださる義の衣を着ましょう。自力の道を捨て、おのれの罪と無力を大胆に告白して、子羊イエスが流された血潮によって罪を覆っていただこうではありませんか。