苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

裁判が正常に行なわれるために

 このところしばらく、教会の祈り会では出エジプト記20章以降の律法を読んでいます。普通、律法は、道徳律法・祭儀律法・司法的律法と区別されて、道徳律法である十戒は時代と文化を超えて普遍的なものなので、今日のクリスチャンにも通用するものであり、祭儀律法はイエス様の十字架の贖いを指差していたものなのでそれが成就した新約時代は直接的な意味では無用となり、司法的律法も古代イスラエル社会におけるものなので直接的な意味では今日に適用すべきものでなくなっていると理解されます。
 けれども、祭儀律法はイエス様による贖いの意味を深く知るために有効であり、司法的律法はその根本的な精神を学ぶならば、これを定められた神のきよい御性質や価値観を学ぶことができ、また今日に適用できる知恵を得ることができます。

 本日の箇所は裁判に関することが記されています。

●偽証禁止

23:1 偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。 23:2 悪を行う権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。

→ナボテのブドウ畑をめぐって、アハブ王は偽証人を立てた。イエス様の裁判でもサンヒドリンは偽証者を立てた。権力者が力にものを言わせて司法を蹂躙することがありがちであることをちゃんと指摘している。これは申命記の律法が、権力者が自分に都合よく書いたものでなく、神のことばであることの証拠である。
ただし 23:3 また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。



●裁判が曲がるのはワイロのせい

  23:6 あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。 23:7 偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。 23:8 わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

→裁判所は、権力もお金もない社会的弱者・庶民の最後の拠り所である。イスラエルが滅ぼされた理由は偶像礼拝とともに、貧しい者たちの正しい訴えが取り上げられなくなったことである。神は公正を愛される。

 では、なぜ正しい裁きが行なわれなくなるのか?それは裁判官がワイロを取るからである。日本の司法では、行政を被告にした訴訟と、大銀行・大企業を被告とした訴訟のばあい、原告の勝ち目はわずか1割しかない。なぜか、裁判官たちが「出世」と「天下り」という合法的ワイロをとっているから。行政に不利な判決を下すと裁判官は出世できない。大銀行・大企業に有利な判決を出せば、退官後、大銀行・大企業の顧問弁護士に天下りできる。四国電力伊方原発差し止め訴訟の最高裁味村判事は、退官後、東芝天下りした。
 裁判官が良心と憲法・法律にしたがって、正しい裁判をなすように祈る必要がある。
 また、数年前から裁判員制度が始まり、一般国民の裁判への参加がなされるようになったが、一般国民が参加できるのは刑事事件であって、行政府・大企業を相手取った民事事件ではないのが欠陥である。なぜなら、この種の民事訴訟こそ国家官僚である裁判官が上にいう出世や天下りという「合法的ワイロ」を取りがちな訴訟であるからである。刑事訴訟でなく、この種の民事訴訟にこそ裁判員制度は活用されるべきである。制度改正が必要。