マタイ6:22−34
2011年4月7日 小海主日礼拝
1.真理を見る目をふさぐもの
国立国会図書館の玄関に、「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)というイエス様のことばが掲げられていることは有名な話です。人は誘惑されて偽りに心もからだも縛られて生きていることがあるものです。
真理は私たちを自由にします。私がここでいう真理というのは、事実をありのままに受け止めることを意味しています。偽りにしがみついていたら、とりあえず気持ちよく、とりあえずお金ももうかり、とりあえず便利なのですが、結局滅びがまっています。それは、麻薬とか原子力発電所みたいなものです。
ところで、真理を見るには心の目がたいせつです。ところが、その目をふさいでしまうものがあるのだ、と主イエスはおっしゃいました。
「6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。 6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
人が真理を見る目を曇らせ、あるいは閉ざしてしまうもっとも代表的なものとして富つまりカネだと主イエスは言われた。どんなに頭脳明晰な人も、カネに目がくらむと、単純な真実が見えなくなってしまうものです。このカネが一番という考え方をマモニズムといいます。今の普通のことばで言えば、経済第一主義です。たとえば日本経済発展のためには、原子炉が必要であり、原子炉保守点検のために、作業員たちが何人も被曝して死んでも仕方ないという考え方です。経済第一主義は、日本を支配している「偶像崇拝」です。
江戸時代の蘭学の頃からの伝統があり、かつ、原爆を落とされて以来、放射線医学に取り組んできた実績のある長崎大学医学部に、東電が9000万円で講座を寄付したいと申し出たそうです。2002年のことです。東京電力は、福島第一原発三号機で、炉心隔壁のひび割れの事実を伏せたまま、97年にむりに交換し、二千人近い作業員にかなりの被曝をさせ、その後も十数年に渡って隠蔽し続けていたことが、発覚したところでした。東電が被曝後遺症を扱う池田学長に唐突に大金の話を申し出た目的は明白でした。代わって斎藤寛学長になると、長崎大学は、9月に臨時教授会を開き、東京電力の寄付口座受け入れを取りやめ、すでに大学側に振り込まれていたカネ全額を東京電力に突き返しました。きたない金をもらっては、真理を探究することも真理を公表することもできなくなってしまうからです。見識のある行動でした。
けれども、東京大学は東京電力から5億円の講座寄付を受けてきたそうです。教授たちは、あたかも電力会社の広告塔のように「原発は安全です。大丈夫です。」と言い続けてきました。さらに、放射能が漏れ出ると、「放射能は少々からだに入っても、ただちに健康被害はない。」と宣伝し始めました。原発で作業している人々以外の被曝は確かに「直ちに」ではないでしょう。しかし、放射能の害を受けると5年後に白血病やガンや骨軟化症になり、あるいはDNAを損傷して子々孫々にまで障害が残るのです。
原発が不適切な発電方法である理由は簡単なことで、小学生にもわかります。原発を一年間稼動させると、原子炉の中に「死の灰」放射性廃棄物が広島型原爆の1000倍できます。現在54基の原発が日本では動いていますから、毎年広島型原爆の54000倍の「死の灰」ができているわけです。
その放射性廃棄物を無害化処理する方法はありません。半減期を待つ以外ないのです。原発から出る「死の灰」(放射性廃棄物)は、10万年後にもなお人をガンにする危険物質であり、米国の発表では安全になるまで100万年監視しなければなりません。そこで政府は、「地中300メートルから500メートルの深い地層にうずめて置け」ということにしました。埋める前には冷やさないといけないので、今、青森県六ヶ所村には3000トンの使用済み核燃料が集積されてプールで冷やしていますが、もう一杯です。一杯なので各地の原発に使用済み燃料プールで冷却し続けています。六ヶ所村も同じことで、電源が切れたら3000トンの使用済み核燃料は暴走してメルトダウンして爆発します。その場合は、滅びるのは日本だけでなくて、世界です。
でも、100万年間、まちがいなく管理し続けることができますか?死の灰を保管したコンクリート容器が100万年も持つでしょうか?アブラハムの時代からわずか4000年しか経っていないのです。
私たちはどうすべきでしょう。カネ、欲から離れて事実を見るならば、話は単純です。すべての原子力発電所は廃止する以外、正しい選択肢はありません。
2.空の鳥、野のゆりを見よ
では、どうすれば私たちは真理を見る目を開いていただけるでしょうか? 真理は屁理屈をこねまわさねばわからぬようなことではなく、単純なことです。だから、単純に生きている者をとおして啓示されています。富と権力や名誉は人の目を曇らせます。富と権力と名誉とかかわりなく生きている者にのみ真理は啓示されるのです。そこで、主イエスは言われます。「空の鳥を見よ。野の百合を見よ。」
「6:25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 6:26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 6:27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 」
イエス様は詩人です。なんという美しい真理のことばでしょうか。空の鳥は何を食べるか、何を飲むかと心配はしていない。父が養ってくださるからです。そして、天の父が許してくださっているいのちのかぎりを生き抜いて、空を駆け巡り、そのさえずりをもって天の父を賛美します。そしてその務めを果たし終えたら、父の許しがあって世を去る日が来れば世を去るのです。なにも心配などしていません。
・・・だから、私たちも何を食べるか何を飲むかと経済的な心配に心を費やすことによって、真理が見えなくならないように注意することです。父なる神があなたを養ってくださいますから。
次に、「野のゆりを見よ」です。野の百合は装い、おしゃれにかんすることです。野の百合は自分が何を着るかなどといって心配はしないけれども、父なる神はあんなにも美しく野のゆりを装ってくださいます。春になってあたりをみまわせば、雪の中から顔を出す福寿草・おおいぬのふぐりに始まって、クロッカス、スイセンと次々に美しい花が咲いています。このあたりも梅が咲きましたね。これから桜、芝桜、雪やなぎ、山吹と続きます。その一つ一つは神様が装わせてくださっているのです。そして、これらの花々はたしかに栄華を極めたソロモンのきらびやかな衣装よりも美しいではありませんか。・・・だから私たちも、何を着るかつまり服装、敷衍していえば名誉や肩書きなどの見栄にとらわれて、真理が見えなくならないように注意しましょう。父なる神が必要に応じて、あなたにも着るものも名誉もちょうと必要な程度に用意してくださいます。
「 6:28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 6:31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」
6章32節「 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。」ということはほんとうにそうだと思います。異邦人とはまことの神様を知らない人たちのことです。彼らはマモンの虜です。経済第一主義なのです。原発がらみで申しましょう。脱原発の動きが少しでも出てくると、すぐに「原発がないと電気がたりないじゃないですか。電気が足りないと日本経済はやっていけない。」と反論する政治家もいれば洗脳された人がとても多いことです。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という心配ばかりです。その心配で目がふさがれて、当たり前の事実が見えなくなっているのです。
54基の原発を稼動し続けることで、広島型原爆の54000発分の死の灰を作り続けているという事実。それを処理する方法がなくて、危険でなくなるまで100万年も管理し続けなければならないという事実。原発を維持するためには、被曝しながらこれに携わる「作業員」と呼ばれる人々が必要とされているという事実。原発事故がいったん起れば、作業員にくわえて、消防士、自衛隊の人々までいのちを捨てなければならないという事実。さらに事故がいったん起れば、それをとどめる手段はなくて、大地も、水源地も、海も汚され膨大な被害が出て、ふるさとは奪われ、健康は失われ、職業も奪われるという事実。これらの事実がまったく見えずに、「原発がないと電気が足りなくなる」「原発がなくなると日本経済が困る」とおまじないのように言い続けるのです。大臣も、官僚も、財界人も、庶民も、まるで思考停止しているかのようです。異常です。
実のところ、私たちが暮らしている中部電力管内に関して言えば、原発は浜岡原発一個であり、浜岡原発がになっている発電量はわずか14パーセントにすぎません。今現在もバックアップ用の火力発電所が50%は休ませていますから、これを動かせば原発を止めたって、電力は十二分に足りているのです。原発を止めても節電する必要がないくらい足りているのです。消費電力量は人口減少と共に減っていく傾向にあるので、「オール電化」「電気自動車」をやって電気の無駄遣いをさせようと中部電力は躍起になっています(日経新聞2月24日)。これが客観的事実ですが、多くの人々が「原発がないと電力がたりない」「原発がないと日本経済が困る」とおまじないを言い続けます。不安と心配のあまり真実が見えなくなっています。
3.心配から解放されるためには
私たちは「何を食べるか何を飲むか何を着るか」という心配をしていると、真理を見る目がふさがれて見えなくなってしまい、不自由な生活に陥っています。さらに、原発などの深刻な問題の場合には、そうした心配の為にわが身を滅ぼすだけでなくて、この国と世界の多くのいのちを殺すことになってしまいます。
では、私たちは偽りにだまされず心配から解放されるために具体的にどうすればよいのか。どうすれば、私たちの目が開かれて真理をしっかりと見て自由に生きることができるでしょうか。主イエスはおっしゃいました。
「 6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 6:34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
神の国と神の義を求めるとは、具体的にはどうすることでしょうか?「神の国」とは「神が王として支配している場」です。神様の御支配が私の人生になることを求めること、それが「神の国を求める」ことです。「神の義」とは「神との正しい関係」を意味しますから、やはり、神の国を求めることと同義です。
あなたの人生、あなたの生活のなかで大きなこと小さなことで、さて右に行くべきか左に行くべきかと迷うことがあるでしょう。そのときに、「全身全霊をもって神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することが、私の人生の大目的なんだ」としっかり見定めて、人生のすべての選択をこの目的にかなうように行なうことです。
もし、右に行くことが目先の「食べること飲むこと」「何を着るかということ」に少々益があることであっても、それが神様を愛し隣人を愛することに背くことであれば、断念することです。逆に、左に行くことが、目先は損に見えたとしても、それが神を愛し隣人を愛することに結びつくことであれば、その道を選択するのです。それには父に対する信仰と愛が必要です。ですが、神の国とその義を第一に求めれば、結局は、父なる神様があなたの信頼に応えて、ちゃんと食べるものも着るものの飲むものも備えてくださいます。
何の心配も要りません。父が私たちを養い、父が私たちを装ってくださるままに、自由に喜んで感謝して、小鳥のように自由に、野の百合のように美しく生きてゆきましょう。そのためには、神を愛し、隣人を愛するということのためにこそ、今日という日を力いっぱいに生きることです。