苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

理にかなった礼拝

 2月20日の主の日は、軽井沢キリスト教会で御奉仕だった。遅刻してはいけないと思って早く自宅を出たら、一時間も早く到着したので、近所の雲場池を散策した。残雪の冬枯れの水辺。水面(みなも)にうかぶ水鳥たちが愛らしく、礼拝の前によい小半時をすごすことができた。


              理にかなった礼拝        ローマ12:1-2      
           2011年2月20日軽井沢キリスト教会 主日礼拝説教

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ローマ12章1,2節新共同訳


(1)「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」(新共同訳)
  「こういうわけで」というのは、どういうわけでしょう。使徒パウロがローマ書の1章から11章まで語ってきたことがら、そのことを指しています。ローマ書は聖書の中で最も順序よく神の救いの計画の全体を語った書です。①創造主なる神こそ唯一礼拝されるべきお方である。②ところが人間は創造主に背き、偶像崇拝ともろもとの罪におちいり神の怒りの裁きのもとにある。③それにもかかわらず神は私たちを愛し、私たちを罪と罪の呪いとしての死から救うために、御子イエス様による贖いをくださった。④この贖いを私たちは行いによらず、ただ信仰によって受け取ることができるということでした。
 造り主である神様に背を向けて罪を犯し続けている私たちは、本来ならば、滅ぼされて当然です。ところが、神様がそんな罪に滅ぶばかりの私たちをあわれんでお救いくださった。だから、「神のあわれみによって、あなたがたにお願いします。」なのです。
(2)理にかなった礼拝
 では、使徒はキリストの贖いのゆえに恵みによって信仰により救われた私たちに、なにを命じているでしょうか。それは、私たちが「理にかなった礼拝」をすることです。
 口語訳や新改訳では「霊的な礼拝」と訳されたところです。それを新共同訳は単に「なすべき礼拝」と訳しました。「霊的な」と訳されたことばは「ロギコス」ということばで、ロゴスがことばとか理性とか論理ということですから、ロギコスは「理にかなった」とか、「筋が通った」という意味ですから、ここでは新共同訳のほうがギリシャ語本文が透けて見える訳語が用いられています。
 では①理にかなった礼拝とはどういうことでしょう。②またどうしたら、そのような理にかなった礼拝ができるのでしょう。これが今日、私たちが御言葉から学ぼうとすることです。

1.理にかなった礼拝とは何か?

 では、理にかなった礼拝とはなんなのでしょう。その内容はなんなのでしょう。「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげること」です。
(1)自分のからだを
 「理にかなった礼拝」それはまず、「自分のからだを捧げる」ことです。「ふくいん子どもさんびか」にまさにからだを捧げて礼拝するという賛美があります。
       「すべてはイエス様のもの」
小さい私の手はイエス様の喜ぶ仕事をするためにある
私のすべてはイエス様のもの 十字架でしなれたイエス様のもの
小さい私の目は神様の御言葉毎日読むためにある
私のすべてはイエス様のもの 十字架で死なれたイエスさまのもの
小さい私の唇で主の尊いお名前誉め歌います
私のすべてはイエス様のもの 十字架で死なれたイエス様のもの

 また「自分のからだを神にささげよ」とは、「自分の全生活まるごと」という意味です。ですから、ここで使徒パウロがいう礼拝とは、主日に私たちがささげているこの公礼拝のことだけを意味するのではなく、私たちの生活全体が神様に対する礼拝であるということにほかなりません。日常の神様への礼拝があってこそ、主の日の礼拝は中身あるものになるということです。といっても、自分の日常がだめだから主日礼拝に出る資格が無いという風に考えないほうがよいでしょう。むしろ、主の日の礼拝が、日常生活が神様をあがめる生活として変えられていくための土台なのです。
 十分の一献金といいますが、十分の一だけ神様にささげるのではだめなのです。十分の十すべてを神様におささげして生きる。十分の一はすべての代表を意味しています。手元に残された十分の九も、あなたの経済生活を通して神の栄光の顕されるように用いるべく、あなたに委ねられているのです。聖書を読んでお祈りをしている時だけでなく、洗濯をしている時も、勤め先で仕事をしているときも、学校で机に向かっている時も、食事をしているときも、風呂に入っているときも神様の主権を認めて行なう。趣味についても、とにかく生活の全領域において、神様をあがめて生きよということです。

 「自分のからだを神にささげよ」皆さんはそれぞれに携わっている分野があるでしょうが、それが商人であれ、農家であれ、教員であれ、主婦であれ、大工さんであれ、学生であれ、芸術家であれ、どんな分野で働いているにしてもその職域においても神をあがめることが出来るようにすべきです。あなたが働いている現場にイエス様が来られたら、喜んでお迎えできるような仕事をすることです。
 あなたの生活の諸領域のなかで、まだ神様におささげしていないところは無いでしょうか。「この点については、自分は神様におゆだねしていません。」と思っているところはないでしょうか。
 この趣味だけは主にお任せしたくないということがあるかもしれません。
 また、嗜好品について主にお任せしたくないという人もいます。
 また、この恋だけは、主におゆだねしたくないとうことがあるかもしれません。
 あなたの生活を一つの家にたとえるとき、イエス様を信じたとき、まずは玄関のドアを開いてイエス様を家にお迎えしたでしょう。喜ばしいクリスチャン人生の始まりです。まずイエス様を客間にお迎えしますか。でもイエス様は、客間だけでは満足なさいません。あなたの台所にも、寝室にも、物置にも、子ども部屋にも入って来たいと思っていらっしゃいます。あなたの秘密の部屋にもはいりたいと思っていらっしゃいます。イエス様はあなたのお客さんではなくて、あなたの主人となることを望まれるのです。

(2)聖なるいけにえとしてささげる
 「理にかなった礼拝」の第二の点は、「聖なるいけにえ」として、自分のからだをささげることです。「聖なる」とは、分けられたという意味です。神様のために特に区別されたものという意味です。聖歌とは神様のために取り分けられた歌です。クリスチャンは自分自身を聖なるものとして、神様のために世から区別しておささげして生きるのです。イエス様がまずすでに私たちをこの世から区別して、ご自分のものとされたのです。もちろん天地万物は神様のものですが、特別な意味で私たちは神様の所有とされているのです。
 「父と子と聖霊の御名によって」私たちは洗礼を受けたでしょう。小学校に上がると、お母さんたちの大仕事の一つは、子どもの持ち物――鉛筆、消しゴム、ノートの一つ一つにみんな名前を書くことですね。その名がつけられると、それは花子ちゃんのものだとか、太郎君のものだということになります。私たちにも一人一人、「父、子、聖霊の御名」が付けられているのです。洗礼を受けたとき父と子と聖霊の三位一体の名が付けられているのです。三位一体なる神様のもの、聖なるものになっているのです。

 しかも、それは「聖なる生けるいけにえ」として自分のからだを神にささげよというのです。これは新約時代のクリスチャンの特権です。旧約時代、神様に対するいけにえは必ず、血が流されなければなりませんでした。罪から来る報酬は死であるからです。祭司は民の代表として牛や羊の頭に手を置いて、そしてこれを殺して血を流すのです。ヘブル書9:22には旧約の律法の原則が明言されています。
「こうしてほとんどすべてのものが、律法にしたがって血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」
 ところがここでは「自分のからだを・・・生けるいけにえとしてささげなさい」といわれています。なぜですか。このいけにえは、罪の償いとしてのいけにえではなく、感謝のささげものだからです。神のみ子イエス様がすでに、罪の償いとしてのいけにえとして十字架で血を流して死んでくださいましたから、もはや私たちは自分の罪の償いをする必要は一切なくなってしまいました。それでもなお私たちがなお神様に差し出すものがあるとすれば、それは感謝のみ、感謝のあかしとしての献身です。
 私たちは自分の罪のなかで滅びるべき者だったのに、神様は私たちをあわれみ、御子イエス様が私たちの罪の身代わりのいけにえとなって、いっさいの罪の償いを完了してくださいました。ですから、私たちは自分の罪滅ぼしのためではなく、神様への感謝のゆえに自分を主におささげするのです。これが、新約の時代に生きる私たちキリスト者の礼拝の原理です。

(3)こうした礼拝的生活が理にかなっているわけ
「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
 どういうわけで、からだまるごと、つまり生活まるごと聖なるいけにえとして神様にささげて生きることが、理にかなっているといえるのでしょうか。世間では宗教なんてほどほどにしておけというではありませんか。ところが、聖書は生活まるごと、神にささげなさいと命じるのです。これがなぜ理にかなったことなのでしょうか。私たちの礼拝する神様が真の創造主であり、救い主であるからです。
 みなさんが座っている椅子は、皆さんのお尻の下で「骨ばったおしりで痛いよ」とか「あなた重すぎるよ」とか「おならしないでよ」とか文句も言わないで、みなさんにひたすらお仕えしていますね。なぜでしょう。人間が椅子を作りました。造られたものが、造ってくださった方に仕えるのは理にかなったことだからです。同様に、神様が万物の創造主であられて、私たちはその被造物(作品)ですから、作られた私たちは創造主なる神様にお仕えして生きることは合理的なこと、理にかなったこと、筋の通ったことです。
 もう一つの理由があります。みなさん『ロビンソンクルーソー』という小説を読んだことがあるでしょう。ロビンソンは絶海の孤島にいたのですが、あるとき、その島の砂浜に二隻の丸木舟が上陸します。丸木舟には三十数名の蛮人が乗っていました。ロビンソンが望遠鏡で見ていると、そのうち四人は縛られていて順順に殺されて、解体されて料理されていくのです。ところが四人目の青年は、すきをみて逃げ出しました。それを二人の男が追いかけてきます。ロビンソンは二人の男を鉄砲でやっつけて青年を救ったのです。すると、青年はロビンソンのもとにひれ伏して、次にロビンソンの右足を自分の頭に載せるのです。ことばは通じませんが、身振り手振りで自分はロビンソンのしもべとして生きますと、命を助けてもらったことへの感謝と服従を誓うのです。ロビンソンが命の恩人ですから、これからは命の恩人の僕として生きていきますということでした。ロビンソンは、この青年にフライデーという名を与えました。彼が助けられた日が金曜日だったからです。
 神様のみ子イエス様は私たちのためにあの十字架に命を捨てて、私たちを罪と滅びと悪魔の支配から救ってくださいました。ですから、私たちがいのちの恩人である復活されたイエス様お方のために人生を捧げて生きることは当然のことです。もしそうしないならば、恩知らずです。ましてやイエス様は単にロビンソンのように鉄砲で敵を蹴散らしたのではなく、そのいのちを捨ててまで私たちを愛してくださったのです。このお方のために人生をささげるのは理にかなったことです。今朝、歌った賛美はまさに、そのとおりだなと感動しました。

    「真昼のように」
 命をかけて愛を示された
 イエス様に出会い全てが変わった
 私はあなたに何をもって
 感謝を表せばいいのだろう
 ***
 真昼のように輝きながら
 あなたの愛を伝えたい
 ***
 イエス様のように輝き続ける
 世の光にしてください

2.礼拝的生活をするために――「この世にならわず、自分を変えよ」

 では、この理にかなった礼拝者として生活の全領域で、神様をあがめ、神様の栄光を現して生きるために、実際的にどうすればよいのでしょう。大切でしょう。この点を最後に学びます。第二節。「あなたがたはこの世にならってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
 高校生の英語でいうnotA,butBです。神様に喜ばれる理にかなった礼拝的生活をするためには、「してはならないこと」と、「すべきこと」があるのです。してはならないことは、「この世に倣う」こと。しなければならないのは「自分を変えていただく」ことです。

(1)この世にならってはいけない
 私たちの日常生活も神様を礼拝する生活になるためには、どうすればよいか。改訳聖書では「この世と調子をあわせてはいけません」とあります。
  私たちは神様の恵みによって救われました。救われたとは何から救われたのでしょう。ゲヘナにおける永遠の滅びから救われた。そのとおりです。罪と罪のさばきから救われたというのもその通りです。けれども、聖書は救いについてもう一つの側面があることを言っています。それは、クリスチャンは「この世(この時代アイオーン)から」救われたということです。ペテロは言いました。「邪悪なこの時代(ゲネアス、世代)から救われなさい。」(使2:40)
 ヨハネはこう言っています。
 「世(コスモス)も世にあるものも愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(1ヨハネ2:15-17)
 「世」には悪魔の著しい影響があります。「世」は肉の欲、眼の欲、生活のおごりに満ちています。テレビや雑誌を見れば、いかに悪魔が世を支配しているかわかるでしょう。肉の欲とは美食、大食に耽ることを、また、法を越えたセックス。眼の欲とは見てはならないものを見たがる不当な好奇心のことです。生活のおごりとは、権力や名誉や財産や門閥を誇る欲望、虚栄心です。これらの欲は悪魔から出ているのです。
 不況の時代になってもTVなどで流されている情報は、まさに肉の欲、眼の欲、生活のおごりを満足させることこそ、人間のすべてであると宣伝しているわけです。それは、かつての私たちにとっては当然の価値観だったかもしれません。礼拝の生活のためには、こういうものに倣ってはいけない。悪魔の支配に陥り、最後には悪魔といっしょに滅びて、悪魔といっしょにゲヘナの炎に永遠に苦しむことになります。

(2)頭を新たにして自分を変えよ
 では、生活全体が礼拝的なものとなるには、どうすればよいのか。「自分を変えていただきなさい」です。どうすれば自分を変えていただけるかそれは「心を新たにすることによって」です。でも「心を新たにする」とはどういうことでしょうね。具体的にはわからない。
 「心」という言葉は、日本ではたいてい情緒的なイメージのことばですが、ここで「心」と訳されることばはヌースと申しまして、英語の辞書ではmind、intellective faculty, understanding, reasonと訳されています。cool mind and hot heart(さめた頭と熱い心)というのですから、この「心を新たにすることによって」という場合、「心」ではなく、むしろ「頭」と訳すべきところです。「頭を新たにして自分を変えていただきなさい」です。これならば、具体的に何をすればよいかわかりそうです。
 私たちのからだは頭によって支配され、頭はことばによってコントロールされています。たとえばお財布が落ちていたら心の中でその瞬間あなたがつぶやいたことばで、あなたの行動はコントロールされます。その最初につぶやく言葉が「落とした人、困っているだろうな」とか「盗んではならない」だったら、あなたの足は交番に向かうでしょう。でももし「ラッキー、得をした」とつぶやいたらあなたは泥棒になるでしょう。
 あなたの頭のなかに、「好きになったらセックスするのがあたりまえだ」というこの世のことばが入っていれば、いずれ不品行に陥るでしょう。「お金と学歴が、幸せの条件です」とかいう、この世のことばが一杯詰まっていたら、私たちのからだはこの世に調子を合わせていくでしょう。肉の欲、眼の欲、生活のおごりにあなたの人生は浪費されてしまいます。
 では、どうすればよいか。私たちの頭に神様のきよいみことばをたくさん蓄えることです。主の日ごとにみとばを味わい、たくわえましょう。また毎日御言葉を味わい、蓄えましょう。私たちの心は畑です。この畑に、すばらしい御言葉の種をこつこつと蒔きつづけるのです。やがて、時が来ると御言葉は芽を出し、実を結ぶにいたるでしょう。気づいたら、内側から変えられた自分を見出すでしょう。
 こうして私たちの生活全体が、神様への礼拝とされていくのです。あなたのからだを神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。それこそ主の御心です。