以前、何か特別番組で、都立養護学校が都教委の指導で卒業式が強制的に変更させられて困っているということを見たことがある。石原都政の下で都教委の締め付けが厳しくなる以前、都立養護学校では、車椅子・歩行器を使う子どもたちも、自分で校長先生の前まで進み出て、自分の手で卒業証書を校長先生の手から受け取ることができるようにという配慮から、校長も来賓も卒業生も在校生も同じフロアで卒業式が行なわれていた。卒業していく子どもたちにとって、たとえ体にハンディがあっても自ら校長先生のところまで行き、校長先生の手から卒業証書をいただくということに、誇りと喜びを感じてきたのである。それを、養護学校ではとてもたいせつにしていた。
ところが、東京都教育委員会は、2003年10月23日、卒業式の形式について、日の丸と都旗のかかげられた正面の高い壇に校長は立ち、生徒たちは壇下のフロアにいなければならないと定めた通達を出し、養護学校においても例外を許さなかった。そのために、養護学校の歩行器、車椅子の子どもたちは、自分で校長先生の前に進み出て、校長先生の手から証書を受け取るという、あの晴れがましい卒業証書授与式をすることはできなくなってしまったのである。
(もっとも石原都知事自身は、もともとは「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌やあいいんだよ。」という発言をしているから(1999年3月13日東京新聞朝刊)都知事自身が最初から強力にこうした管理を進めてきたのではないように思われる。都教委の動きは、文部科学省と教育改革国民会議を背景としていると見るべきだろう。都知事はそれに追随したのだろうか。)
いったい、都教育委員会のいう「教育」とはなんなのだろうか?都教委が意図していることは、卒業式の形態に現われている。まず、壇上に校長が立ち、壇下のフロアに卒業生・在校生がいるかたちが意味していることは、校長は卒業生・在校生に対して上位の権威であるから敬いなさいということである。そして、校長の背後に日の丸と都旗を掲げるのは、校長は国と都という権威の代表であるという意味である。「天皇を中心とする神の国」こそ日本の理想像だと考える人々からすれば、ほんとうは日の丸だけを真ん中にドーンと掲げて君が代を歌わせたかったのだろうが、そうしたら戦前回帰があまりにも露骨なので、都旗を並べ掲げることによって緩和したのだろうか。国旗・都旗を並べたことによって、日の丸が相対化され、偶像化(御真影化)が緩和されているのは事実であろう。あるいは、そういう意図ではなくて、日の丸だけだと中央集権的なので、地方分権色を出すのだという意思の現われであろうか。いやもしかすると、役人お得意の、前例にしたがっただけという可能性もなくはない。
都教委の人々の現代の若者に対する苛立と日本の将来への危機感が、筆者にもわからないではない。たとえば毎年報道される全国各地の自治体の成人式における新成人たちの、あまりにも幼稚かつ無礼千万な振る舞い。自治体の長や来賓が祝辞を述べている最中も、ギャーギャー騒いでいる新成人たちのようすを見ると、「こういうことになるまえに義務教育の間に締め上げて公の場における礼儀というものをわきまえさせなければ、日本はほろびる・・・」という風に、都教委の人々でなくても焦ってしまうのだろう。
たしかに、聖書にも「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」(1ペテロ2:13,14)と命じられている。この世の権威は礼拝の対象ではないが、敬意の対象ではあるというのが聖書の教えである。また、上長を敬うべきことも聖書の教えである。「あなたの父母を敬え」(出エジプト20:12)「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは【主】である。」(レビ19:32)もちろん白髪でなくはげ頭でも敬うべきである。さもないと熊に食われるかもしれない。「エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、『上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭』と言ったので、彼は振り向いて、彼らをにらみ、【主】の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。」(2列王2:23,24)
都教委の危機感はわかる。上長を敬うことを教えるべきだということもわかる。しかし、情けないのは、対策としてこの国に滅びを招いた国家主義・天皇神格化めいたことをもう一度持ち出す頑迷さである。また、特にあきれるのは、「心の中でどう考えていてもよいからとにかく頭を下げろ」とか、「心の中でなにを考えていてもいいから歌を歌え」「意味は考えるな、とにかく従え」と強要し、従わなければ処分するということである。こんなことを教えたら、自分の良心を裏切って行動する卑怯者を造り上げるだけだからである。自分の頭で考えないロボットを大量生産して、国力を弱めるだけだからである。そして、憤りを覚えるのは、養護学校のケースのように、どう考えても子どもたちにとってたいせつな卒業式を踏みにじって、教育効果ゼロどころかマイナスにしてしまう硬直しきった「心無い」判断である。壇上と壇下に分けなくても、礼儀をわきまえることは教えることはできるはずである。そう、心のなさが問題なのである。意味もわからず闇雲にかたちだけ守らせようというのがいけない。
ほんとうに礼儀をわきまえさせたいならば、ちゃんと心のあること、中身のある教育をすべきなのだ。心の伴わない礼儀というのは、単なる欺瞞・偽善にすぎない。「ありがとうございます」と口では言いながら心で「ふん。この野郎。」と思っている人間が都教委の目指す人間像なのか。「ごめんなさい。ゆるしてください。」と慇懃に頭を下げながらぺろりと赤い舌を出すような人間が、理想の日本人像なのか。まさか、そうではあるまい。過ちを犯したら、心からごめんなさいとおわびをし、お世話になったら心から感謝にあふれて「ありがとう」と言える誠実な人間こそ理想だろう。そうならば、もう少し卒業式のありかたについて、頭を使うべきだと思う。
では、どのようにして心ある教育をすればよいのか。日の丸と君が代がそれほど大事だというならば、最低限、次のような教育をすべきだと思う。第一に国旗や国歌というものが世界でどういう位置をもっているかを正確に教えること。第二に、日の丸・君が代がわが国の歴史のなかでどのような役割を果たしてきたのかを教えること。第三に、日の丸・君が代と日本国憲法における主権在民の原理との関係をどのように理解すべきなのかをきちんと教えること。その上で、これらに一定の敬意を払うにふさわしい国際的にも通用するマナーがあるというならば、堂々とそういう教育をすればよいのだ。だが、万が一、都教委の本音が、「日の丸・君が代・憲法について、正確に事実を教えたら、だれも敬意を払わなくなってしまうから教えられないのだ。」ということならば、何をかいわんやである。