苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

君が代の君は天皇を意味しないというナンセンス

 ある物事の現在における意味というのは、その本来の意味と、歴史の中で付け加えられてきた意味とが合成されたものである。その意味が付け加えられたのが、3日前とか、せいぜい1年ほど前までというならば、「本来、これはそういう意味ではないのです。」という議論も通用するであろうが、数十年、百年も前にその意味が付け加えられ、社会的にもその意味が認知されてしまうならば、「本来、これはそういう意味ではないのです。」などという議論をすることはナンセンスであろう。
 同様に、<君が代は本来古今集ではお祝いの歌だったのだ。だから天皇の御代が長く続くようにと称える歌ではない。>などという主張は浅はかと いうほかない。ケント・ギルバートという人が、どこかで聞きかじったらしいその種の議論を引用していたので、考えたところをちょっとメモしてみる。

 ケントさんは、先の時代に軍国主義者が天皇賛美の歌の意味をくっつけたとしても、もともとお祝いの歌なんだから、反対するのはばかげているというのである。確かにこれはお祝いの歌ではあるが、中身は「じいさん、長生きしてね。」という長寿の祝い歌である。では長寿の祝いのとして歌えばよいだとすれば、どうなるか?長寿の祝いなら、学校の卒業式やお相撲の始まりやオリンピックで歌うのは場違いである。むしろ、それぞれのお誕生日に、各家庭で、ハッピーバースデトゥーユーの代わりに歌えばいい。バースデーケーキを囲んで「きーみーがーよーは・・・♪」って歌って、最後にロウソクを吹き消すのだろうか。シュールである。だが、ありえないだろう。こんな話を聞いて「不敬だ」と怒り出す人は、実際には君が代の「君」は天皇陛下であると認めているわけである。

  ちなみに、古今集のその詠み人しらずの歌はちょっと言葉が違っていて、「わが君は千代に八千代に・・・」である。それを明治になって、1869~80年ころ「天皇の治世が長く続くように」という意味の歌にふさわしく歌詞も「君が代は千代に八千代に・・・」と改変したのである。だから、この変更の時から、長寿の祝い歌ではなくなったというのが事実である。これはウィキペディアをちらっと見ればわかることである。
 しかも、それが天皇が現人神とされた国家神道体制の中でなされたことなので、大戦後になってもある人々は「天皇を神のようにたたえていることになるんじゃないか?」と不安を感じたり、あるいは、主権在民つまり「民が君主である」という建前の憲法下では不適切なんじゃないかと思う人も当然いるわけである。しかし、ある人たちは戦後の憲法天皇は国民の統合の象徴なんだから、国民の統合つまり国民がずっと仲良くやっていけるようにという意味で歌えばいいのだと、何も問題を感じないも人もいる。・・・いや大半の人は、みんなが歌っているから歌っているだけだろう。だが、なんとなく感動して歌っていたり、同調圧力に負けていやいや歌っている人もいるだろう。これが実態ではなかろうか。

 「国民統合の象徴である天皇の御代が長く続くように」というのが、素直に読んだ戦後風の君が代の意味であろう。しかし、君が代は統合より分裂の原因になってしまっているのは残念なことである。昭和憲法ができた時、いっしょにそれにふさわしい国歌を用意すればよかったのだろう。私などは「さくら」がいいような気がするのだ。

「さくら さくら やよいの空は 

 見渡すかぎり かすみか雲か 

 にほひぞ いづる 

 いざや いざや 見にゆかん」

 国風文化が誕生した平安期の歌のイメージで、いたって平和な歌、日本の伝統に根ざす歌である。

 ちなみに、「世界中の人々は自国の国歌を誇りをもって歌っているのだ」と、テキトーなことを言う人がいるが、嘘である。たとえばフランス国歌ラ・マルセイエーズは、その内容があまりにも血なまぐさいために、歌うことを拒否するフランス人はたくさんいることは、ワールドカップを見たらすぐにわかる。革命によっておびただしい血が流された国の国歌は、えてして軍歌のようなものとなりがちなのだろう。