ユダヤ教会から出てきた初代教会が直面した最初の神学論争は、ユダヤ主義にかんする神学論争だった。つぎに、ヘレニズム世界の宣教がひろがっていったときグノーシス主義論争が起こる。そして、ローマ帝国の大迫害の中で生じてきたのは、棄教者がどのように教会に復帰できるかということをめぐってドナティスト論争だった。これらの論争においては、この世の権力は教会に介入はしてこなかった。為政者は、そんなことに関心はないから。
しかし、コンスタンティヌスが回心をして、キリスト教を公認すると帝国は教会の神学論争に介入してくる。というのは、皇帝はキリスト教を帝国の一致のための紐帯であると考えていたからである。教会が教理問題で長々と分裂してしまうのは、帝国にとって非常に都合が悪かった。そこで神学論争に携わる者は、論敵を言い負かす以上に、皇帝を納得させることが重要課題となる。ややこしい話だ。
けれども、実際にアレイオス論争の過程を見ていくときに、ニカイア信条が政治的産物になってしまわずに、真正な教会の信仰告白となったことは不思議なことである。「しかし、実際には驚くべきことに、この論争は政治的策略に呑み込まれてしまうことがなかった。むしろ教会は、もっとも厳しい状況の中にあってさえ、キリスト教使信の根幹を脅かすような見解を拒絶するだけの強さと智恵を発揮したのであった。」(フスト・ゴンサレス)
*「アリウス」「アタナシウス」とラテン風表記するか、「アレイオス」「アタナシオス」とギリシャ読みにするか。一応、東方(ギリシャ文化圏)の人々なので、後者にした。同じことはエウセビウスとエウセビオスについても言える。でもアレクサンドリアをアレクサンドレイアというのも、なんだかなので、首尾一貫性に欠くけれどもアレクサンドリアと書く。
1.三位一体の教理
三位一体の教理は4世紀になって突然登場したわけではない。まず、この教え自体は、聖書自体に啓示されたことであった。旧約でも神の唯一性と複数性のわずかな啓示がすでにあったが(創世記1:1-3、26)、特に新約にいたって父・子・聖霊の三一性は福音書(マタイ28::19)、パウロ書簡(1コリ12:4-72コリ13:13、エペソ2:22、3:15-17、4:4-6etc...)であらわされている。
そして、ユスティノス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス、アイレナイオスたちは神の唯一性と三性をずっと語ってきている。
神が唯一であることについては、プラトン的教養のある神学者たちは、プラトン哲学における「宇宙全体の上にある至高の完全な存在」が神であるとした。その完全性は、不変、不受苦、不動とした。このプラトン主義の影響は今日の神学にまで及んでいる。(神の不受苦性は特に。そこで北森「神の痛みの神学」が話題となる)
もう一つはロゴス論。ユスティノス、クレメンス、オリゲネスが展開した。至高の存在である父は、不変・不動・不受苦であるとすれば、その神はいかにして被造物とかかわりをもち得るか?という課題がある。ロゴス論者たちは神のロゴスが人格的存在として世界と人間と関係を結ばれるという。聖書において神がモーセに語りかけたのは、神のロゴスが話し掛けたということである。
<論点>神のロゴスは神と等しく永遠であるかどうか?
コンスタンティノスが西方を、東方をリキニウスが統治していた時代。
アレイオスは「ロゴスの存在しないときがあった」と主張した。それはつまり、ロゴスは永遠ではないとし、神ではないということである。父のみが真の神であり、ロゴスは神ではなく、第一の被造物であるという主張である。彼はロゴスの先在を認めたが、万物の創造に先立って、神はロゴスを造ったと言った。いわゆる「従属説」である。
教会の長老アレイオスのアレクサンドリア司教アレクサンドロス批判のポイント。アレクサンドロス説は、神性をもつ二つの存在を認めることになり、神は唯一であるというキリスト教の伝統を否定することになるというもの。
司教アレクサンドロスのアレイオス批判のポイント。アレイオスの主張は、ロゴス(イエス)の神性を否定することになるということ。教会はその初めからイエスを礼拝してきた。アレイオス説にしたがうなら、教会はイエス礼拝を止めるか、被造物礼拝を認めるほかなくなる。
アレクサンドロスは司教としてアレイオス説を非難し、彼をアレクサンドリア教会から罷免すると宣言し、アレイオスはこれを拒否して論争となる。
東方教会全体を分裂させる危機的状況となった。
2.ニカイア公会議
325AD、コンスタンティノポリス郊外のニカイアで公会議。第一回の公会議である。集った司教たち総勢318人という説。彼らは数年前に帝国から受けた拷問の痕をその体に残していたが、今や帝国の費用でここに招かれた。彼らは迫害が去った幸福感にひたりながら、会議をした。棄教者を教会に復帰させるための基準、長老や司教の選出と按手の方法、司教管区の優先順位付けをした。しかし、最大の難問はアレイオス論争。
①アレイオス主義に立つニコメディアのエウセビオス(カイザリアのエウセビオスとは別人)・・・・・・アレイオスは司教でなかったので、公会議には招かれなかった。彼は代弁者である。
②御子の神性を主張するアレクサンドリアの司教アレクサンドロス・・・・・彼の従者のなかに若きアタナシオスがいた。
③西方教会にとっては、テルトゥリアヌスの定式「神のうちに三つのペルソナと一つの実体がある」で十分だった。
④父神受苦説・・・patri passionismの人々が少数いた。父と子は同一であるという立場。彼らは当然アレイオス説に反対。
上の4つのどれにも属さない司教たちは、教会を分裂させることをもっとも嘆いていた。
会議はどのように進んだか。ニコメディアのエウセビオスがアレイオス説を述べた。詳細に説明すれば、彼は公会議全体が自分の説を受け入れてくれると確信していたが、結果は逆だった。ゴンザレスによれば「たとえ神のことばが被造物の中でいかに高い位置を占めるとしても、結局は被造物以外の何者でもないとするアレイオス説を聞いた司教たちは、激しい怒りを表し、このうそつき、この冒涜者、異端者と叫びだした!」
そして、彼らは出来る限り明白にアレイオス主義を拒絶すべしとした。こうして、原ニカイア信条ができた。
原ニカイア信条
われらは信ず。唯一の神、全能の父、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。われらは信ず。唯一の主、イエス・キリストを。主は神の御子、御父よりただ独り生まれ、すなわち御父の本質より生まれ、神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と同質なる御方を。その主によって万物、すなわち天にあるもの地にあるものは成れり。主はわれら人類のため、またわれらの救いのために降り、肉をとり、人となり、苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ねる者とを審くために来り給う。われらは信ず。聖霊を。
御子が存在しなかったときがあったとか、御子は生まれる前には存在しなかったとか、存在しないものから造られたとか、他の実体または本質から造られたものであるとか、もしくは造られた者であるとか、神の御子は変化し異質になりうる者であると主張するものを、公同かつ使徒的な教会は呪うものである。(関川泰寛訳)
この同質なる「ホモウーシオス」が大事なポイント。ホモイウーシオスではなく、ホモウーシオス。
公会議はこれで合意が成ることの望んだが、ニコメディアのエウセビオスほか少数のものたちは署名をこばみ、彼らは公会議によって異端宣告を受けて追放された。
コンスタンティヌス帝は司教たちだけの教会法による処罰に、市民法による追放刑という処罰が加えた。これは、重大な影響を後世に及ぼす。世俗権力が、正統とみなす教理のために教会に介入した前例となる。
ところが、これで論争は終わらず、ニコメディアのアウセビオスはコンスタンティヌス帝に取り入り、皇帝はアレイオス派にたいして厳しすぎたと後悔し、アレイオスを追放地から呼びもどした。
アレクサンドリアのアレクサンドロスは318年に死に、アタナシオスが司教になる。ニコメディアのエウセビオスは皇帝に取り入って、コンスタンティヌスを動かしてアタナシオスを追放刑にすることに成功。ニカイア派の指導者たちともどもに。コンスタンティヌスはアレイウス派びいきで、洗礼をニコメディアのエウセビオスから受けた。
そのあとも、コンスタンティヌス帝死後、ごちゃごちゃする。詳細は省略。
3.アレクサンドリアのアタナシオス
「正統信仰の父」と呼ばれる。アレクサンドリア主教。325年のニカイア公会議をはじめ、その生涯のほとんどをアリウス主義との戦いに捧げた。司教在位45年のうち、5回の追放を受け、合計一七年間を亡命の地で過ごしている。
<アタナシオス 年譜>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
295頃 生まれた場所はナイル河畔の町か村?幼い日に、砂漠の隠修士アントニオスと交流。
304−311 迫害を体験。アレクサンドリア司教アレクサンドロスに師事し、プラトン、アリストテレス、新プラトン主義などの古典学とキリスト教学を学ぶ。
318 助祭に叙階され、アレクサンドロスの秘書となる。
325 アレクサンドロスの随行員としてニカイア公会議に参加。
328 アレクサンドロスの死に伴い、後継者としてアレクサンドリア司教に選出。
335 アリウスのアレクサンドリア帰還を拒否したため、反対派の陰謀により無実の罪を着せられ、ティルス教会会議において司教職を罷免され追放される(第1回追放:335.7−337.11)。
337 コンスタンティヌス大帝の死によって新たに東方帝国の統治者となったコンスタンティウス帝の恩赦によりアレクサンドリアに帰還。
339 ニコメディアのエウセビオスらアリウス派によって開かれたシリアのアンティオキア教会会議において再び罷免。代わってカエサリアのグレゴリウスが司教に選出。アタナシオスはロ−マに逃れ、ここから彼とロ−マ教会との間に関係が生じる(第2回追放:339−346)。
341 ロ−マ司教ユリウスにより開かれたロ−マ教会会議において、ニカイア信条が再確認され、ロ−マからシリアのアンティオキアに書簡が送られる。
343 西方の統治者のひとりコンスタンス帝によって開かれたサルディカ教会会議に先立ち、ミラノでニカイア公会議における正統信仰の擁護者ホシウスと面会。サルディカではアタナシオス無罪が宣言される。これに対抗してアリウス派はフィリッポポリスにおいてアタナシウス罷免を宣言。
345 西帝コンスタンスの働きかけに東帝コンスタンティウスが動かされた形で、アリウス派の擁立したアレクサンドリア司教グレゴリウスの死に伴い、アタナシオスのアレクサンドリア帰還が許可。
350 ニカイア正統派の擁護者であったコンスタンス帝暗殺。翌年にはロ−マ司教ユリウスも死去。
355 帝国を統一したコンスタンティウス帝によって開かれたミラノ教会会議において、アタナシオスの断罪が宣言される。皇帝の軍勢の再度にわたる襲撃を受け、アタナシオスはエジプトの砂漠の修道士たちのもとに逃亡、潜伏(第3回追放:356−362)。この間、多数の著書を刊行。
361 コンスタンティウス帝の死去に伴い、新帝ユリアヌスが単独皇帝として即位。恩赦によって追放地にある司教たちに帰還が許可。
362 アレクサンドリア教会会議を開催。ニカイア派と半アリウス主義の融和をはかる。しかし、まもなくユリアヌス帝により追放される(第4回追放:362−364)。再びエジプトへ潜伏。
363 ユリアヌス帝の死と新帝ヴァレンス即位により恩赦。間もなく追放され、三度目のエジプト潜伏(第5回追放:365−366)。しかし4ヶ月後にアレクサンドリアに帰還し、以後はニカイア派後進の指導に当たる。
373 アレクサンドリアにおいて死去。
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以下、フスト・ゴンサレスによるアタナシオス紹介の要約
ニカイア公会議に集った人々の中にひとりの背が低く色の黒い青年がいた。論敵は彼を黒い小人と呼んだ。それがアタナシオスである。彼はナイル河畔の原住民のことばであるコプト語を話した。彼はコプト人らしく肌の色が黒だったのである。ギリシャ・ローマの文化に精通しているわけでもない。
アタナシオスは子どものころ砂漠の隠修士アントニオスをしばしば訪ね、彼の手を洗った。彼は生涯砂漠の修道士たちと親しい関係をもち、修道士たちはアタナシオスを支持し、が追放されると避難所を彼に提供した。アタナシオスは厳格な修練を学び厳しくそれを実行した。アタナシオスは、議論が論理的に優れていたとか、政治的な洞察が優れていたとか、流麗な文体だったというわけではない。論敵のほうがそういう面ではすぐれていた。
アタナシオスは、単純な信仰の人であり、修道士としての修練、燃え立つ精神、強い確信こそが武器だった。
アタナシオスにとって、イエス・キリストにおいて神が人となられたことは、人類の歴史とキリスト教信仰にとって中心的な事実である。神の受肉=神が我々の中に来られたからこそ、神と我々は交わることができるというこそ、キリスト教の確信である。それゆえ、アレイオス主義はそれを危機にさらすものと考えた。アレオイスは、つまるところ、キリストとは被造物だと教えたからである。
アレイオス論争は、自分たちの生活とあまり関係のない神学議論ではない。キリスト信徒としての生活の土台の問題なのである。
論敵アレイオス派は皇帝コンスタンティウスを味方につけた。アタナシオスは、しばしば逮捕され、追放された。そして彼は砂漠に五年間暮らしたこともあった。アレイオス派は、シルミウムの公会議でニカイア会議の決定を公然と否定したことさえある。ところが、コンスタンティウス帝が突然死に、背教者ユリアヌスが皇帝となる。皇帝は論争をなすがままにまかせて、キリスト教会の弱体化を見ようという政策を取った。その結果アタナシオスはアレクサンドリアに帰還できた。
そして、神学的合意に達する。
362年アレクサンドリアの会議で、『父と子と聖霊の区別を取り除いてしまわないかぎりにおいて、『同じ本質』ホモウーシオスという表現を承認し、同時に父と子と聖霊が三つの神になってしまわないかぎりにおいて「三つの本質」ということが認められる、と。
こうして、ニカイア正統主義は、結局381年第二回公会議であるコンスタンティノポリス公会議で確定した。
ニカイア正統主義の三位一体論の確立にはカイザリアの大バシレイオス、彼の弟ニュッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオスが貢献しているが、ここで教えるほど私も知らないので、名前だけ紹介しておく。(筆者としては、最低限、その人物の主な著作の一つ二つに目を通した人を紹介する方針)