苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イエスはメシヤである

                 使徒3:11−26
                 2009年12月27日 小海主日礼拝

1 ユダヤ人の罪

 主イエスが復活して、天から教会に聖霊を注がれて新しい宣教の時代が到来しました。ペテロとヨハネエルサレム神殿の美しの門で、生まれながら足なえの乞食を、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と命じました。すると、彼はただちに飛び上がって歩き出し、二人の後について神殿の中に入ってきました。場所はソロモンの廊。主イエスが御在世当時、祈りの場とされた場所です(ヨハネ10:23)。エルサレム中の人たちはこの乞食と顔なじみでしたから、この奇跡に驚嘆して、ぞろぞろと人々がペテロとヨハネのところに集ってきたのです(11節)。ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言いました。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」
 奇跡を見ると、人間というのはすぐその奇跡を起こした人の異常な能力に夢中になり、神業だとかほめそやす傾向があり、そのように祭り上げられて道を誤り、迷信に陥る人が多いのです。このときもそうでした、彼らは尊敬と畏怖のまなざしでペテロたちを見つめたのです。ペテロたちは、そういう危険を感じて、このいやしの力の源は、自分ではなく、生けるイエスの御名なのだと明言したのです。そして、彼らの罪を厳しく指摘します。
あなたたちはイエスを不当なユダヤの裁判にかけ、そのあとローマ総督府での裁判に突き出した。あの残忍な総督ピラトでさえ「イエスは無罪だ」といったのに、それでも君たちはさばきを捻じ曲げて無理やりにイエスを処刑してしまった。あなたたちが殺したのは、アブラハム以来先祖が待ち望み、神が遣わされたメシヤ、きよい正しい方、いのちの君なのだ、と。これほど重い罪があるだろうか。それは神に対する宣戦布告ではないかと。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。」

2.イエスはメシヤである

 彼らの罪をこのように指摘した後、ペテロはイエスがメシヤであることを論証して、ユダヤ人たちに悔い改めを求めます。イエスがメシヤ(キリスト、救い主)であることの証拠とはなにか。ここで三つ挙げます。
(1)イエスの復活
 第一は、イエスが復活したという事実です。けれども、神様はむざむざご自分が派遣したメシヤを殺されるままにしておくような無力なお方ではありませんでした。その死をもって人類を罪から贖い、復活させたのです。彼らペテロとヨハネはその目撃証人です。
「しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(3:13−15)
 ペテロとヨハネは死んで三日目によみがえられた主イエスの目撃証人です。ヨハネは、あの日の午後三時ころイエス様の十字架の近くまで行き、そこでイエス様の死を見届けました。番兵が死を確認するために、イエスのわき腹に槍を突き刺すと、イエスのわき腹から水と血が噴き出しました。医学者の説明によれば、これは、主イエスのすでに心臓が破裂して、胸腔内にたまっていた血液が透明な血清と赤血球の分離していた証拠です。たしかに主イエスは死んだのです。
 ところがその金曜から三日目、週の初めの日、女たちの報せを受けてペテロとヨハネはイエスの墓に走って行くと、そこはすでにもぬけの空でした。ペテロは呆然とし、ヨハネはその墓に脱ぎ置かれたものようすから、「見て、信じた」とあります。さらに、その日の夕方、ほかの弟子たちと彼らはある家に集っておりましたら、そこにイエスが現れたのです。人違いではありません。その手には釘の穴が開いており、わき腹には深々と突き刺された大きなやりの傷跡があったのです。「私たちはそのことの証人です」と彼らがいうのは、その意味です。

(2)御名による奇跡
 イエスがまことのメシヤである第二の証拠は、復活したイエスの御名によって、実際に、このうまれながらの足萎えの男が癒されたという事実です。
 イエスは死の力を打ち破って復活されました。ということは、イエスは今も生きておられるということです。現に、今、イエスの名によって足萎えに命じたら、彼は立ち上がり、躍り上がったではないか。死者に、そんな力はありません。それは今もイエスは生きておられて働いておられるというあかしです。
「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」(3:16)
 復活したイエスは、今、天に戻られましたが、今も聖霊を教会に送って生きて働いていてくださるのです。イエスが復活し、今も生きて働いていらっしゃることのあかしは、イエスの御名によって、人の人生が変えられるという事実です。その証がなければ、イエスの歴史的復活にどれほどの意味がありましょうか。実際、今日も、イエス様を信じたならば、その人の人生は変わります。イエスが生ける御霊を注いでくださるからです。実際、イエス様を信じたときから、私の人生は変わりました。あなたの人生も変わったでしょう。ならば、私たちもイエスの復活の証人なのです。

(3)旧約の預言の成就

 イエスがメシヤである第三の証拠は、イエスの受難は旧約のメシヤ預言の成就なのだという事実です。ペテロはメシヤを殺したユダヤ人たちの罪の重大さを指摘した後、彼らに悔い改めを求めます。あなたたちはあのナザレのイエスがメシヤであるとは知らなかったから、あんな恐ろしいことをしてしまった。そのことは知っているとペテロはいささか同情的に言います。 「ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。」(3:17)
 しかし、この出来事は、神のご計画の成就でもあったのです。ペテロは続けます。「しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」(3:18,19)
 メシヤの受難は、旧約聖書詩篇において、またイザヤの預言において語られていたことでした。たとえばイザヤ53章。この個所はあまりにも見事に、イエスの受難による人類の救いを告げているので、「イザヤの福音書」と呼ばれます。
「 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。
  彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。
  彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
  彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
  人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
 主イエスは都エルサレムでなく片田舎に、王侯や富豪や大学者の家庭ではなくナザレの大工の家庭に生まれました。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
  私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
   私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
  しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
 主イエスが捕らえられ鞭打たれ十字架に磔にされたとき、人々は「イエスは自分の神の御子と偽ったから、あのように神に打たれて罰せられているのだ」と思い込んでいました。しかし、主イエスの苦しみは私たちの罪のあがないのだめであったのです。
 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
  ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
  彼は口を開かない。
  しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
  彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
  彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」
 主イエスはピラトの裁きの後に激しく鞭打たれ、侮辱されましたが、嘲られても嘲り返すことをせず、一歩一歩ゴルゴタの丘へと石畳を踏みしめて行かれました。そのありさまはまさにほふり場に引かれていく羊のようでした。
「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。
  彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。」
 ゴルゴタの丘に到着すると、イエスの十字架の両側には強盗・殺人の罪を犯した死刑囚が立ちました。そして、主イエスが息絶えると金持ちの議員アリマタヤ・ヨセフがイエスの亡骸を引き取って、自分の家の墓に葬ったのです。
 「 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。
  もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、
  彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
  彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
  わたしの正しいしもべはその知識によって多くの人を義とし、
  彼らの咎を彼がになう。
  それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
  彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
  彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
  彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」
 イエスの死は私たちを罪と死から救い出すためでした。イエスは復活されて後、ご自分の受難によって多くの人を贖うことができたことを喜び、満足されるのです。このように、イエスは間違いなく旧約の預言者たちが語っていたメシヤです。イエスが復活したという事実、今目の前で起こったイエスの御名による癒しの奇跡という事実、そして、旧約の預言がイエスにあって成就したという事実、この三つの事実はイエスが本当のメシヤであることの明白な証拠です。

3 悔い改めの要求

だから、あなたがたは悔い改めなさいとペテロはすすめます。というのは、次にメシヤが再臨され、万物が改まり、新しい天と新しい地が訪れようとしているからです。
「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。」(3:20,21)
 今はイエスは天にとどまっていらっしゃいますが、次に来られるときには最後の審判を行なって全被造物を新たになさるのです。そのとき、世界は争いはなく正義が支配する愛の満ちた世界になります。
 さらに、ペテロは、旧約の預言者モーセ、サムエルの名を上げて、ユダヤ人たちに警告します。イエスこそ、モーセが告げた、彼に匹敵するもうひとりの預言者である。その預言者が訪れたならば、そのことばをみな聞きなさい、聞き従わない者はみな亡ぼされてしまう、と。
モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』(3:22,23)
 イエスこそ、神がアブラハムに告げられたアブラハムのすえなのです。そのアブラハムの末によって、世界の諸民族は祝福されると告げられたあのメシヤなのです。
「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。」
 だから、あえて滅びを選んではならない。祝福を選びとりなさい。先祖アブラハム以来、待ち望まれてきたメシヤは来られたのだ。邪悪な生活を捨てて、イエスのもとにたちかえりなさいというのです。

むすび

 ペテロの説教の結果はどうだったでしょうか。ユダヤ人たちは、ここまでイエスがメシヤであることを立証されても、心をかたくなにしてしまいました。一部を除いて、多くのユダヤ人たちはイエスを拒絶し、そして、キリストの福音はこのおよそ2000年間、異邦人へと広がってきたのでした。しかし、ユダヤ人たちはキリストに対して食い新た目を拒みました。彼らは、これではモーセの預言のとおり、亡国の民となりおよそ1900年間世界をさまよいました。
 私たちキリスト教会は、新約における神の民です。新約のイスラエルである私たちは、イエスを拒んで滅びの道を歩んできたユダヤ人たちのことをどう考えるべきでしょうか。二つのことが大事です。
 第一は、ユダヤ人をさばくのでなく、むしろ彼らがイエス・キリストを信じるように、祈るべきです。彼らは本来神の民でありながら、キリストに背いてしまいましたが、イスラエルイエス・キリストに立ち返るならば、それは世界の祝福となるのです。「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。」(11:17−20)
第二は、私たちは高ぶるのではなく、かえって、私たち自身が、恵みの上にあぐらをかいて傲慢になっていないか自己吟味して、神を畏れ身を慎むべきです。まだイエス様を信じていない方は、異邦人である私たちにもたらされた福音を、ほんとうに謙虚になり感謝して受け入れましょう。イエスは復活の事実と、生けるあかしと、旧約の預言の成就という三つの事実によって、ご自分があのメシヤであることを明確に証明なさったのです。