苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

修道院的循環

 教会史家の用語に、「修道院的循環(monastic cycle)」ということばがある。中世において教会はしばしば世俗化し霊的に沈滞してしまった。そういうとき、志ある人々が起きて、修道会を作ったが、数十年経つとその修道院も世俗化してしまう。すると別の修道会が起こされるという現象が起こった。
 ベネディクトゥス修道院は無所有・純潔・服従を原則として「祈れ、働け ora et labore」という標語をもって活動した。修道士になろうとする者は、全財産を放棄して、ペン一本私有することはなかった。修道士たちは農業・手工業・古典の書写といった仕事に勤勉に励んだ。修道士たちが勤勉に働けば、当然、収入が生じるが、それは修道士たち個人のものにはならず、修道会の所有となっていく。また、一般の信者たちは修道会に農地などを寄進した。その結果、10年20年30年たつと修道会は発端の志とはちがって、たいへんな金持ちになってしまった。修道院の礼拝堂は黄金の調度品に飾られるようになり、修道会が所有する荘園は地平線まで続くようになる。やがて修道会の規律は緩んで世俗化してしまった。・・・・そういう状況を嘆いて、また別の修道会が起こされた。彼らは無所有・純潔・服従という原則に立って活動を展開していく。しかし、数十年経つと資産もお金もたまりすぎて、世俗化していった。・・・こういう現象を、「修道院的循環」と呼ぶのである。
 中世ローマ教会では、司祭や修道士は聖なるものとされ、それ以外の労働は俗なるものとされた。この過ちに気づいたルターやカルヴァンたち宗教改革者は、すべての職業を神の召しとする職業召命という考え方を提唱した。プロテスタントの信徒たちは、神の召しと信じて商売に励んだが、その結果得た収入は、修道士的精神ゆえに、楽しみのために浪費しようとしなかった。これが「世俗内禁欲」である。修道士は修道院の壁のなかで勤勉と禁欲生活をしたが、プロテスタントは世俗の中で勤勉と禁欲を実践した。その結果、富が蓄積され、さらに事業に投資され資本主義社会が形成されていった。そしていつのまにか「神の栄光のために」という目的は忘れられて、ビジネスの拡大そのことが大きな目的になっていった。修道院の外でも、やっぱり「修道院的循環」が起こったというわけである。
 富というもののもつ魔力を、甘く見てはいけない。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」マタイ6:24