苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史24 二つのキリスト像:映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」

 中世ヨーロッパのキリスト教社会を映像で学ぶために、筆者が神学校の教会史のクラスでいつも鑑賞を薦めたのは、映画Brother Sun, Sister Moon(1973年)だった。アッシジのフランチェスコの青年時代を描いたこの映画は、彼の回心と修道会設立にいたるまでを美しい映像とドノヴァンの歌でたどりながら、同時に中世という時代の抱えていた矛盾をも描き出している。
 世俗権力と覇を争う教会権力の醜悪さは、まず若きフランチェスコと友人たちが鎧兜に身を固めた騎士として出陣するのを、教会の司教が送り出す場面に現われる。このとき、礼拝堂の正面に飾られていたキリスト像はきらびやかな冠をかぶり鎧をまとい、恐ろしい顔をしている。
 フランチェスコは戦に出て捕虜となり、その後、敗残兵としてアッシジに帰還するが、そのまま病に伏せってしまう。そして病床で小鳥の姿に、小鳥をも生かしたまう神を見出す。所有するものは何もなくとも、小鳥は自由だった。フランチェスコの父ベルナルドーネは十字軍によって開かれた東西通商によって得た東方の高価な織物によって巨富を築いた商人であり、フランチェスコを跡継ぎとして期待していた。
 小鳥の姿に神の愛を見出したフランチェスコは、病が軽快したとき野を散歩して廃墟となった小さな礼拝堂内に、十字架の素朴なキリスト像を見出す。それは、あの大聖堂の鎧に身を固めた軍神キリスト像コントラストをなしている。こうしてフランチェスコは決定的な回心を経験し、キリストに従う決心をする。富も名誉も快楽も捨て、父を捨て、母を捨て、ただ神が生かしてくださり、神が装わせたもうままに生きる小鳥のような生活にはいる。そして、ただひとりで石をひとつひとつ積み上げて、あの廃墟となったサン・ダミアーノ礼拝堂の再建を始める。やがて、かつての悪友たちがフランチェスコを心配して訪れるうち、感化されて、彼らも世を捨ててともに礼拝堂再建にたずさわるようになり、修道会の原型がここに生まれることになる。
 その頃、神聖ローマ皇帝がこの町に巡幸してくる。このとき、誰が城壁に囲まれた町の鍵を皇帝にわたすかということをめぐって、司教と市長が争う場面がある。これもまた、教会と国家とが、この世における権勢を争う中世社会を象徴している。
 フランチェスコが始めた修道会は、町の支配階級にとって脅威となる。若者たちが、次々に家を捨ててフランチェスコとともに無所有の生活にはいって行くからである。教会の司祭はフランチェスコが始めた聖ダミアーノ礼拝堂の再建を最初は容認していた。ところが、実際に、礼拝堂再建が完成して、町の人々がこぞって聖ダミアーノ礼拝堂に行ってしまい、自らの大聖堂に閑古鳥が鳴くようになると、官憲に聖ダミアーノ礼拝堂破壊を許す印可を与えてしまう。その結果、礼拝堂の番をしていたフランチェスコの友のひとりが官憲に殺害されてしまう。
 フランチェスコは自分のしてきたことが間違っていたのではないかと悩みに陥り、その質問を携えてローマ教皇のもとに出かけてゆく。フランチェスコは、インノケンティウス3世に拝謁する。インノケンティウスはフランチェスコのことばに感銘を受けて、彼の足に接吻をして、その修道会に祝福を与える。インノケンティウスのこの劇的なへりくだった所作を見て、枢機卿たちは驚愕するが、ひとりの枢機卿らしき男は「教皇ななかなか役者だ。これで、不平を抱く民衆を黙らせることができる」とつぶやく(下のyoutube字幕版ではカットされている)。宗教はアヘンであるというわけだ。
 以上のように、この映画はフランチェスコの時代背景である中世ヨーロッパ社会の矛盾を見事に描き出している。それと同時に、この作品がつくられた時代のベトナム戦争(1965−75年)を支持していた米国キリスト教会に対する抗議をも含んでいると思われる。キリスト教は米国では「市民宗教」化し、富と権力にこびていたのである。それゆえあの時代、米国の多くの若者たちは平和運動の拠点をベトナム戦争を支持するキリスト教会に求めることができず、ある者たちはもっと素朴なキリストを探し求めたが、多くの者たちはヒッピームーブメントに身を投じた。
 十字架にかかられた謙遜なキリストを忘れ、キリスト像に鎧をまとわせ、若者たちを戦争に駆り立てた権力機構としての教会は、塩気を失った塩である。十字架のキリスト御自身こそ、真に立ち返るべきお方であると、監督フランコ・ゼフィレッリは言いたかったのではなかろうか。だが、このように社会と教会の欺瞞を告発する内容であるにもかかわらず、この映画は輝くばかりに美しい。小鳥との出会い、咲き乱れる野の花々、そして聖少女クララとのほのかな心の交流、中世の町の石造の町の風景など。筆者は映画通ではないけれど、これほどに美しく心洗われる思いがする映画のほかに見たことがない。


 敗残兵として戻るフランチェスコと、病床でよみがえる出陣の日の武装したキリスト像。7分から10分あたり。

 聖ダミアーノ寺院の廃墟でやさしいキリスト像と出会う。