神は、使徒たちをどのように召し、訓練されただろうか。その原則は、今日の牧師養成に生かされるべきである。
1.新約聖書で「召し」ということばが用いられているのは、第一には救いへの神の召しという文脈(1コリント1:26)と、第二は牧師伝道職への神の召し(ローマ1:1、コリント1:1など)という文脈とでのみ用いられており、一般の職務については用いられていない。
2.すべてのキリスト者は献身的信徒であることを主から期待されているゆえ、職業を通しても神の栄光を表わすべきであるし、あらわすことができる(ローマ13:1)。しかし、すべての信徒が召しを受けているわけではない。
3.主イエスは使徒たちを、献身的信徒たちから召して、彼らを3年間ご自分のそばに置いて特別に訓練された(マルコ3:14)。召された彼らは、仕事を捨て、親を捨て、財産を捨てて主にしたがった。牧師伝道職に就く者は、献身的信徒たちのうちから選抜して訓練する必要がある。
4.主イエスの使徒を訓育する方法は、まず自ら率先垂範し、次に、ことばで教え、ついでそれを実際にやらせた。パウロもしばしば「私にみならいなさい」というように、聖書的な教育法とは要するに、率先垂範である。したがって、神学教師は牧師伝道者の模範といえる働き人でなければならない。
5.牧師・伝道者は、他の職務と同様、その働きから生活の支えを得る権利がある。しかし、かりに報酬を得ることができなくとも、神の前に伝道をする義務がある。それは魂への負債意識として自覚される(Ⅰコリント9:3-18)。この点、他の職務とは異なる。
6.みことばの教師に対する神のさばきは格別厳しい(ヤコブ3:1)。