苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

多様性・統一性・歴史性

 創世記には、神は天地創造にあたって、これを七日の段階にわけて造られたと記されている。第一に光、第二に大気、第三に海と陸と植物、第四に天体の運行による時の管理、第五に水棲動物、第六に陸上動物と人間、そして第七は安息日である。私たちはここから多くのことを読み取りえようが、この世界の構造について特に二つのことを指摘しておきたいと思う。
 一つは、この神の作品である被造物世界は多様でありながら統一的なシステムであるということである。神の作品は、非常に多様な部分からなっているが、同時に全体として統一性が取れているのである。もっとも身近なものとしては、私たち自身のからだがそうである。「確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。・・・しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」(1コリント12章抜粋)からだだけではない。この被造物世界全体がきわめて多様な部分から成りつつ、大きくは天体の運行から小さくは細胞までが、たがいに連関して見事に統一されたシステムをなしている。
 創造に関してもう一つ不思議なことは、全能の神は「世界よあれ」とおっしゃって、一日でこの世界をお造りになることもできるのに、そうはなさらずに、あえて、一日、二日、三日・・・・七日というふうに始まりがあって終わりがあり、諸段階を経たものとしてお造りになったということである。これは私たちが住む世界に、神は歴史的な性格をお与えになっていることを意味している。言い換えると、神はこの世界の物事を摂理なさるにあたって、世界に始めを与え、「一度にすべてでなく」少しずつ段階的に進め、ついに完成したもうということである。
 世界が多様にして統一的であるということについては、古代ギリシャの哲学者たちも気づいていた。だが、ギリシャには、一般に歴史的な意識が欠けていたといわれる。時はグルリグルリと回ってもとに戻ってくる円環的で永遠的なものだと考えられていた。春夏秋冬、誕生・成長・老化・死を繰り返す自然の営みの観察から生まれた時間論であろう。しかし、聖書の歴史観では世界には始まりがあり、諸段階を経て、終わりがあるのである。創造から新しい天と新しい地の完成に向けて世界は進んでいる。
 聖書によれば、私たちが住まわせていただいている、神の作品である世界は、多様にして統一的であり、かつ歴史的な世界なのである。この事実の認識は、私たちの生き方に深くかかわってくる。