苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮村節

 昨日の所感に、一部の読者にしかわからない「宮村節」ということばを書いて失礼してしまった。神学生時代にお世話になった新約学・聖書解釈学の先生に、宮村武夫先生という方がいらっしゃる。この宮村先生が常日頃おっしゃっていた主張をさして、同窓生たちは敬愛の情をこめて「宮村節」と呼ぶのである。
 たとえば、昨日の「地域に根ざし、地域を超える」とか、「存在の喜び」とか、「マンネリを恐れず」とか、「一度にすべてではなく」とか、「(眼鏡の奥の目を輝かせながら)新しい天と新しい地」。こういう鍵となる表現のことである。

「存在の喜び」
 「存在の喜び」というのは、「存在が喜ぶ喜び」でなく、「存在を喜ぶ喜び」を意味している。親が、子どもが何ができる出来ないといった機能価値ではなく、子どもがそこに存在していることを喜ぶという喜びである。神が、あなたがなんの役に立つかということではなく、あなたが存在すること自体を喜んでくださる、その神の喜びのことを意味している。子どもだけでなく、人間が人間として生きていく上で、こうした神と隣人によって自分の存在が喜ばれているということの確認が必須であると宮村先生は言われた。「おまえなんかごくつぶしだ。消えてなくなれ。」と言われては、人は人として生きてゆけない。ここ十数年、doingではなくbeingが大事だということがカウンセリング方面の影響でしきりに言われるようになったが、宮村先生はそれを聖書理解から何十年も前からおっしゃっていた。(5月19日のブログを参照されたい。)

「一度にすべてではなく」
 宮村先生が語られることは、しばしば俗人を超越しているので、先生をよく知らない人は宮村先生を理想主義者として敬遠したかもしれない。しかし、先生の歩みを拝見すると、先生のばあい理想が単なる理想に終わらず、いつしかしっかりと地上で結実していくことをずっと見せていただいてきた。かりに理想を100点として、現実が3点だとしたら、普通の人なら、失望して理想を見上げること自体をあきらめてしまう。あきらめてしまって口にすることもなくなる。けれども、先生は「一度にすべてではなく」少しずつという理念をもっていらしたので、長い時間の経過のなかでやがて理想が地上で具体的に実を結んできたのである。それは先生が、あの目で見るべきものを見て、信じたことを「マンネリを恐れず」口にし続けてこられたからだろう。これも聖書の啓示の歴史的構造から編み出された宮村節である。
 今後、宮村節とその背景をときどき紹介していきたい。その背景には聖書的なものの見方、世界の見方がある。


*近々、宮村武夫著作シリーズが刊行されます。第一巻は『愛の業としての説教』です。