苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

三十五年ぶりの再会

 今日は苫小牧通信印刷が終わらんとするころ、東京基督神学校時代の一年先輩のH牧師が訪ねてくださって旧交を温めました。神学校卒業以来35年ぶりです。また神学校時代の同期のたいへんな状況の報告も聞きました。
 それから苫小牧名物カレーラーメンを食べに行きました。札幌は味噌ラーメン、函館は塩ラーメン、室蘭・苫小牧はカレーラーメン旭川は醤油ラーメンということになっているそうです。ぼくの記憶が正しければ。ただし、カレーラーメンを食べるなら、味噌仕立てカレーラーメンにかぎります。醤油仕立て、塩仕立てでは、いまいちです。
 食後は港の夜景を見に行きました。黒い海面に、停泊する船の灯が映って美しい眺めでした。

 

<翌日追記>

 今朝は、H牧師の出発前に、苫小牧の北大演習林に出かけてきました。鴨のいる池のほとりで、H牧師はリコーダー、私は鼻笛で合奏しました。「いつくしみ深き」「アメイジンググレイス」「ふるさと」を演奏すると、不思議なことにクルクル泳いでいた鴨たちが静かになって聞き入っていました。さらに「四季の歌」を合奏すると、池の向こうを行く老夫婦が、手を叩いてくださいました。その後、私が一人で滝廉太郎の「花」を吹いたら、今度はH牧師は西洋のなんだか難しい曲を吹いてくださいました。そして、私が「青葉の笛」を吹きました。

 とっても楽しいひとときでした。

 また、鼻笛どうしの合奏では音程を合わせるのがとてもむずかしいのですが、リコーダーの基準があるとピタリと合うことがわかりました。

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聖書は同性間性交についてどう教えているか

2019年9月23日、少し加筆修正しました。

 

1 同性間性交に関する聖句リスト

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ローマ12:2

  「聖書は誤りのない神のことばである」という信仰に立つ教会が、何事であれ第一に確認すべきことは、聖書における神の基準です。

 (1)神が定めた結婚の秩序

創世記2:24

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

  神が、男と女が結婚し性交することを定められた。

(2)同性間性交の禁止

 旧約の律法において男性同士の性交は死罪に当たる罪とされていた。

レビ記18:22

「あなたは、女と寝るように男と寝てはならない(kai. meta. a;rsenoj ouv koimhqh,sh|)。それは忌み嫌うべきことである。」

レビ記20:13

「男がもし女と寝るように男と寝たなら(koimhqh/| meta. a;rsenoj) 、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」

 無論、これは古代イスラエル国家の社会的律法に属することであるから、その刑罰がただちに新約時代の教会に適用されることではないが、神の前に同性間性交が罪とされていることは事実である。

 

(3)諸々の罪のリストの中の同性間性交

 新約においても、男色はもろもろの罪のリストの中にある。

1コリント6:9、10

「あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者(avrsenokoi/tai)、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。」

 

1テモテ1:9,10

「すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、淫らな者、男色をする者(avrsenokoi/tai)、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。」

 

 *パウロは上のレビ記18章と20章の70人訳ギリシャ語聖書のことばから「男色をする者」を造語したようである。男色は、偶像崇拝、姦淫、不品行、泥棒、不敬虔、親殺し、誘拐、偽証、酒におぼれることといったもろもろの罪と同列にされる罪である。

 そういう意味では、男色は正常な行為であるとすることが間違いであるのは勿論だが、逆に男色だけを特別の罪として扱うのは間違いである。異性間性交であっても、結婚の契りを破壊する姦淫や不品行は罪である。

 

(4)断罪される同性間性交

「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。」(ローマ1:26,27)

  レビ記と1コリント、1テモテでは男色が取り上げられて罪とされるが、ローマ書では女性の同性間性交も罪とされている。

  以上のように、聖書は同性間性交という行為を罪と定めていることは明白である。

  

2 同性愛的傾向があることと、同性間性交をすることの区別

  人類はアダムにあって堕落したために、全ての人が何らかの罪への傾向性を持っている。後天的あるいは先天的に、それぞれに罪への傾向性をもっている。たとえば偶像崇拝に親しむ文化の家庭や社会に育った人の多くは、キリスト者になって後も偶像崇拝が異常な忌まわしいことと感じることができない。そうした不敬虔な感覚をもっていることは残念ではあるが、それ自体を教会は断罪することはできないし、すべきてはないだろう。その裁きは神の領域である。しかし、その人が偶像崇拝を実行すれば罪である。また、泥棒の家庭に育つ子は幼い日からたくみに盗むことを褒められているので、窃盗に良心の呵責を感じることができないというケースがある。そういう盗みへの傾向性を持っていることは残念だが、盗みを実行しなければ教会はそれを断罪すべきではあるまい。しかし、そういう人が盗みを実際に行えば罪である。

 他にも我々はそれぞれ先天的・後天的にさまざまな罪への傾向性を持っていて、それは残念な現実であるが、教会はその人を最初から拒絶して、福音を伝える対象外とすべきではない。キリストは罪人を救うために来られたのである。だからむしろ、教会は、それが罪であることを伝え、かつ、神の御子イエスがこれらの罪の呪いを十字架で受けて、罪を赦してくださり、主イエスに信じ従う者を聖化のみわざによって罪の傾向性からも解放していってくださる約束を告げてとりなし祈り助けるべきである。およそ罪というものは、悔い改めてキリストを信じることによって赦され、さらに、聖霊のみわざによってきよめられていくものである。

 同じように、先天的あるいは後天的に、同性愛的傾向を持つ人がいるとすれば、その傾向性があることは残念だが、教会はその人を最初から拒絶して、福音を伝える対象外とすべきではない。教会の務めは、他の罪を犯している人に対するのと同じように、同性間性交が罪がであることを伝え、かつ、神の御子がその罪のためにも十字架で償いをなしとげてくださったことを告げ、悔い改めて主イエスを信じるように勧めることである。そして、聖霊とみことばによって、癒され罪から離れ聖化されていく約束を告げ、とりなし祈り、助けることである。

 

 

 

 

宣教区女性のつどい

 今日は富川福音教会で、宣教区女性の集いが開催されました。金ジュファン先生が、信仰継承・家族伝道というテーマで、聖書的かつ具体的かつ牧会的配慮に行き届いたお話をしてくださって、たいへん勉強になりましたし、慰められ、励まされました。

 また、お二人があかしに立ってくださいましたが、片方はすんなりと教会に導かれた夫君についての証しで、もうお一人は頑なに拒んでいたけれども、クリスチャンの妻が天に召された後、みことばと教会に導かれてイエス様を信じるにいたり、その後、天で再会を果たしているというあかしでした。お二人が立てられたことにも、主のご計画を感じました。

  お天気は、暑くもなく寒くもなく、美しい秋空の一日でした。早く到着したので、私は富川の漁港を見てきました。往復の車のまじわりも楽しいものでした。

ハート形

 信州川上村のYさんのお宅に家庭集会に出かけ、日の当たる庭に面した部屋で、みなさんが集まるのを待っていたとき、就学前の双子の女の子が集会前に私のところにやってきた。まりちゃんが私の顔をのぞきこんで、「みずくさせんせいのかお、なんでハート形なの?」と質問する。突然の質問に、うまい答えが見つからないでいたら、まなちゃんが「はげてんだよ」と低い声で言った。そばで、Yさんが口に手をあててよじれていた。

 もう二十年ほど前の思い出。いまは大学生になったまなちゃんがFBにコメントをくれたので思い出したこと。

楽しい一日

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 昨日は、午後にTCU支援会主催の講演会のために、神学校時代からの友人山口陽一先生が来たので、午前中、北海道開拓の村に案内しました。歴史家の彼はとにかく「古い物」に目のない人ですから。大変喜んでくれました。お昼は北海道名物スープカレーでおなかいっぱい。

 私は例のごとく、遠足の朝みたいに薄暗いうちに目がさめてしまったので、肝心の午後の講演のときは、ところどころ睡眠学習法を採用してしまいました。ごめんなさい。

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よく眠れましたか

 この秋は札幌の北海道聖書学院での担当授業の始まりが午前8時20分なので、前泊して授業に臨むようになった。朝食のテーブルにつくと、「よく眠れましたか?」と神学生が聞いてくれる。「いや、あまり眠れなかったよ。授業があると思うと、遠足の前みたいにわくわくしてね。」と答えた。実は、今秋月曜日にさとランドという公園に神学生たちとピクニックにでかけたときにうたった一つの賛美が、就寝時頭の中をぐるぐるとまわっていてよく眠れず、朝五時には目がさめたのだ。

 この秋担当している科目は終末論と現代神学。いずれも、その考え方の根本が理解できて、自分の頭で諸説を判断する力をつけて、聖書自体にしたがった聖書解釈をすることができる力を身に着けてほしいと願っている。

 昨日はチャペルの担当だったが、そうとは知らずにいて、説教原稿なしで、ローマ8章15節を中心に、奴隷的信徒と神の子としての信徒の話をした。

 今朝は、昨日少々睡眠不足だった分、七時までゆっくり眠れた。あすは主の日、きょうは備えの日である。

 

苫小牧は秋が良い

 「苫小牧は秋が良いんです」と、この地域の人たちは口々に言います。春から夏はあまりお天気がよくないのです。その良い秋がようやくやってきました。牧師室から眺める空は高くなり、プラタナスの街路樹は青々として風に揺れていますが、これからだんだんと色づいてくるでしょう。