苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ぶどう園の歴史

マタイ21:33−46



 「何の権威でもって、あなたはこんなことをしているのか?」エルサレムに入城し、イエス様が宮きよめをし、宮の中で民を教えていらっしゃることに対して、宮の管理責任者である祭司長・長老たちは、イエス様に抗議をしました。主は、彼らが聴く耳を持たないことをご存知でしたから、彼らにご自分が神の御子としてこれらのことをしているのだということを、明白には話そうとなさいませんでした。しかし、ぶどう園の譬えによって、事柄の意味を暗示なさいます。
 しかし、今、私たちは、この譬えが何を意味するのかを明白に知ることができます。まず、このたとえ話の登場人物が誰をさしているかを申し上げます。
家の主人は、父なる神、
農夫たちは、イスラエルの指導者である祭司、長老たち、
主人が遣わしたしもべたちは、神がイスラエルに遣わした預言者たち、
主人の息子は、御子イエス
別の農夫たちは、私たち異邦人を指しています。
 このたとえはぶどう園の歴史、つまり、旧新約聖書にわたる教会(神の民)の歴史、救いの計画を教えています。


1.シナイ契約

21:33 もう一つのたとえを聞きなさい。
 ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。

 父なる神は、アブラハムの子孫であるイスラエルの民をお選びになりました。それは、彼らが祭司の王国、聖なる国民として世界の万民に、主の恵みとまことをあかしするためです。そのため、彼らに真の神を礼拝し、互いに愛しあう公正な社会をつくるための律法を授けられたのでした。
 それから、もうひとつ紹介しておきたいのは、神の定めた経済政策です。神様は貧富の格差拡大を防止するために、神様はイスラエルに対してヨベルの年という制度を設けて、50年ごとに地境をもとに戻し、奴隷は解放すると定めておられました。一握りの大土地所有者と、大多数の貧乏人・奴隷という格差社会になることを主は嫌われたのです。神様は公平な国を建てるためのガイドラインイスラエルにその建国の最初にお与えになっていたのです。その内容は出エジプト20章以降とレビ記に記されています。
 以上のことが、「家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸した」ということばの意味することです。神様からイスラエル国を託された指導者たちはこの国を、神のみこころが行われる社会として営むべきでした。それでこそ、イスラエルが「祭司の王国、聖なる国民」として世界の万民に、まことの神をあかしすることができます。


2.イスラエルの罪と預言者の派遣

 けれども、その後のイスラエルの歴史を見ますと、残念なことに、彼らは神の前に二つの罪を犯しました。第一は、偶像礼拝です。ソロモンの後、イスラエルの国は南北に分裂し、エルサレム神殿のない北イスラエル王国では、代わりに金の子牛礼拝が行われるようになります。南ユダ王国エルサレム神殿がありましたから、主なる神への礼拝は途絶えることはなかったものの、この神殿の中に異教の神々を持ち込んで、主なる神と並べて偽りの神々を拝むという罪を犯したのでした。
 イスラエルの第二の罪は、「みなしご、やもめ、在留異国人」といった貧しい人々の訴えが取り上げられない不公正な社会、貧富の格差の甚だしい社会を来たらせてしまったということでした。あのヨベルの年の定めは、ついぞ実行されることがなかったので、富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなって、巨億の富を蓄えて贅沢三昧するほんの一握りの階級と、明日の食べ物も心配な大多数の庶民とに分かれてしまったのです。
 
 そこで、神様は悔い改めを促すために、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ホセア、アモス・・・といった預言者たちを派遣なさいました。それが、たとえ話の34節に言われていることです。

21:34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。

 預言者たちはなにをイスラエルに告げたのでしょうか。彼らはイスラエルの民に悔い改めをうながしました。悔い改めて「祭司の王国、聖なる国民」として実をみのらせなければ、遠くから恐ろしく強い国を攻め寄せてあなたがたは滅びてしまうぞ、という警告です。 預言者イザヤは、彼らの異教化した神殿礼拝を責めました。また、イスラエルがみなしご、やもめ、在留異国人たちを虐げて、権力者、金持ちをのみ偏り優遇していることを非難しました。

1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。
  香の煙──それもわたしの忌みきらうもの。
  新月の祭りと安息日──会合の召集、不義と、きよめの集会、
  これにわたしは耐えられない。
1:14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。
  それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
1:15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。
  どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。
  あなたがたの手は血まみれだ。
1:16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。
  悪事を働くのをやめよ。
1:17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、
  みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

 ところが、イスラエルの指導者である王、祭司、長老たちは悔い改めるどころか、預言者たちを迫害します。イザヤの最期はのこぎり引きの刑であったと伝えられますし、エレミヤも権力者に弾圧されました。旧約最後の預言者は、あのバプテスマのヨハネでした。彼もまた、王によって殺害されてしまいました。これが主イエスが35節でおっしゃっていることです。

21:35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。 21:36 そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。


3.御子の派遣

 預言者たちを何人送ってもイスラエルは悔い改めないので、父なる神は最後に尊いひとり子イエス様を人間として派遣なさいました。クリスマスの出来事です。

21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子を遣わした。

 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方ははじめに神とともにおられた。・・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とあるとおりです。御子は御父と瓜二つのお方なので、御子を見た者は父を見るのです。御子イエスの言葉を聞き、生き方を見ると、私たちは父なる神のことば、ご人格を見ることができます。
 しかし、御子の恵みと真実に満ちた生き方と言葉は、当時のイスラエルの指導者たちの欺瞞と愛のなさに対する痛烈に批判となりました。当時のイスラエル神政政治が行われ神殿礼拝は栄え、祭司階級、律法学者たちが重んじられていました。けれども、神の御子が現に来られて彼らをごらんになると、そこには欺瞞、偽善だらけだったのです。御子が恵みを説き、真理の道を歩まれると、彼らの偽りがあからさまにされてしまい、群衆はイエスのほうに集まったのでした。指導者たちは、御子イエスに対して怒りを燃やし、殺害することに決めてしまうのです。

21:38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
21:39 そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。

 御子イエスは数日後には、イスカリオテ・ユダによって祭司長・長老たちの手の者に渡されてしまいます。たとえ話に「ぶどう園の外に」とあるのは、エルサレム城外のゴルゴタの丘の上で、十字架にかけられて殺されてしまうことを意味しています。このように、主イエスはこのたとえ話によって、まもなくわが身に起ころうとしていることを正確に予告なさったのです。

 そして、主イエスは彼らに尋ねました。

21:40 この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
21:41 彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

 祭司長、長老たちは、神の御子イエスを十字架に処刑したのち、彼らの身に起こることを正しく答えました。「その悪党ども」とは彼ら自身のことです。ローマ帝国軍はイスラエルを滅ぼしエルサレムの神殿を破壊してしまい、指導者たちは殺され、イスラエルは亡国の民となってしまいます。神の国は彼らから取り上げられて、「別の農夫たち」つまり異邦人に渡されることになるのです。「41節「収穫の時にはきちんと収穫をおさめる別の農夫」と言われています。
 これが私たちに期待されていることです。言い換えれば、旧約の民が陥ってしまった罪に陥らない民であることです。第一に、偶像崇拝という罠に陥らず、第二に、みなしごやもめ在留異国人という弱い立場の人々の訴えが取り上げられる公正な社会ということです。私たちの生活、私たちの教会のあり方に主が期待されていることはこのことです。


4.石・・・御子イエス

 そして、主イエス旧約聖書詩篇118篇22節のみことばを引用なさって、ご自分と彼ら祭司長・長老たちに数日後に起ころうとしていることを予告なさいます。

21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
  『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。
  これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』
21:43 だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
21:44 また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

 石を積み上げて神殿を建設していくとき、この石はあちらの場所に、あの石はこちらの場所に、というふうに積み上げていきます。ところが、家を建てる者たちが、「この石はどこにも使えないな」という石が出ると、その石を捨ててしまいます。
 このたとえ話で「家を建てる者たち」とは、神殿礼拝を司る祭司長・長老たちのことをさしています。家とは、神の家つまり神殿礼拝、神殿礼拝を中心としたユダヤ教のことを意味しています。彼らのところに神の御子イエスが来られて、真理のみことばを説いたのですが、彼らは、自分たちが作り上げた神殿礼拝の宗教のありかたに合わない、危険だ、といって捨ててしまう、つまり、十字架にかけて殺してしまうのです。
 しかし、そのユダヤの祭司長、長老たちに捨てられた石であるイエスが世界に広がる新約の時代の神の家である教会の礎の石となられたのです。不思議なことです。人間の思いはかりを超えた、神のわざ、神の知恵です。

 この譬えを最後まで聞いて祭司長たちは、ようやくその譬え話が自分たちをさして言われたことに気づきました。つい先ほど「ぶどう園の悪党どもは、主人に殺されて当然だ」と言い放ったものの、それが自分たち自身の近い将来の運命を告げてしまったことに、今、気づいたのです。 また、あの「石」はイエスのことだから、イエスにつまずいている自分たちは、いずれ粉々にされてしまうのだと話されたことに気づいたのです。彼らは腹を立てて、もう黙ってはいられない、イエスを逮捕して黙らせてしまいたいと思いましたが、群衆が怖くてイエス様に手出しできなかったのでした。

21:45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。
21:46 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエス預言者と認めていたからである。


結び
エス様のぶどう園の譬えはまことに見事なものですね。そして、主イエス詩篇を引用して話されたこの捨てられた石のことは弟子たちにとって印象深いことでしたから、使徒の働き4章11節にも、またペテロの手紙第一2章4−8節にも取り上げられています。特にペテロの手紙第一2章では、主イエスは人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石であり、私たちキリストを信じる者も生ける石として、霊の家に築き上げられなさいと勧められています。霊の家とは教会、聖なる公同の教会のことです。

2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。
  「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、
  尊い礎石を置く。
  彼に信頼する者は、
  決して失望させられることがない。」
2:7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、
2:8 「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。

 スペインのバルセロナにあるサグラダファミリア教会をご存知でしょうか。1882年に建築が始まり、今も建築途上で、始まったときの予想では300年要するということだったそうですが、近年スピードアップして恐らく2026年に完成しそうだということだそうです。神の礼拝堂が何世代にもわたって築き上げられてゆくのです。聖なる公同の教会が、壮大な石造りの礼拝堂イメージ。その礎の石はイエス様です。そして、初代教会の時代から何百億、何千億という聖徒たちが一人また一人と、生ける石としてこの壮大な神殿を築き上げてきました。今、その神殿は完成に近づいています。私たちこの小海キリスト教会の群れもその壮大な神殿の一部をなしています。あなたも生ける石です。世の終わりには、この聖なる公同の教会はついに完成するときに、主イエスが再臨なさるのです。その日の幻を胸に、主の教会、霊の家に築き上げられてゆきましょう。

祈り

2:9 あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。