苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン3月20日  イザヤによる福音書!

イザヤ53:12
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。(新改訳)


それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。(口語訳)


このゆゑに我かれをして大なるものとともに物をわかち取しめん かれは強きものとともに掠物をわかちとるべし 彼はおのが靈魂をかたぶけて死にいたらしめ愆あるものとともに數へられたればなり 彼はおほくの人の罪をおひ愆あるものの爲にとりなしをなせり (文語訳)


それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。(新共同訳)

 イザヤ書53章は「イザヤによる福音書」と呼ばれる。それほど克明に「主のしもべ」の受難と、受難による勝利を預言する箇所であるから。
 描写のひとつひとつを読むほどに、預言者は十字架に向かう主イエスを、復活の主イエスを見ているという印象が強い。視覚的啓示が与えられたのだと思う。
 それにしても、「ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を刈るものの前で黙っている雌羊のように彼は口を開かない」という受難の描写と、この12節の戦いの勝利者としての描写のコントラストの鮮烈なこと!
 罪あるこの私をも、サタンの牢獄から奪い取って、ご自身のものとしてくださった主にハレルヤと讃美をささげよう。