新幹線の中で『小畑進牧師の思い出』を読みました。懐かしくも、少し後悔を感じました。
私は東京基督神学校が国立にあった時代に小畑先生の講義を聴いては超人的な博覧強記と迫力に驚嘆し、その独特な朗読説教にうならされた者のひとりです。けれども、ついに私はオバチスト(笑)にはなりませんでした。何か、心に止めるものがあったのです。若い私の傲慢と臆病のせいだと思います。
今回、小畑牧師の牧会にあずかった方たちのしるした文章を拝見して、せめて一年間だけでも、杉並長老教会で先生の牧会を見せていただくべきだったのかもしれないと感じました。言っても詮無きことですけれども。
小畑先生の牧会の対象は、ご自分の群れの人々だけでなく、神学校の卒業生にも及んでいました。私の場合、二十一年前に、初陣の地を去って南佐久郡に開拓伝道に出てから、四国香川県三木町からときおり、ご自身筆をとられた水彩の絵葉書に田舎伝道の同労者として励ましのことばを何枚もいただいたものです。
小畑進先生は、巨大な思想家であり、芸術の域に達した説教者であり、そして、なにより懇切な牧会者でいらしたのです。
そうそう、驚くことが書かれていました。小畑先生の絶筆が「アウグスティヌスにおける悪の問題」であったということです。これは私が神学校の卒業論文で扱ったテーマで、主査は小畑先生だったのです。