苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

教会と国家ついて、聖書から3点

1.新約時代、特定の国家の軍隊が神の選んだ「世界の警察」ではありえない。

 新約時代には、福音は世界にひろがり、神の民は世界の諸民族・諸国家に広がりました。ですから、神が特定の国家に対して「聖戦」を命じるということは構造的にありえなくなりました。特定の国が、「わが国の軍隊は神が選びたまうた世界の警察だ」と自称しているとすれば、それは思いあがりであって、聖書根拠はありません。


2.初代教会時代の「教会と国家」の姿を範型とすべきこと

 宗教改革の神学に学ぶことは多くあります。しかし、すべてが妥当とはかぎりません。ルター、カルヴァンの前提とする社会はいわゆる「キリスト教社会」つまり少数のユダヤ人は例外として全員がキリスト教洗礼を受けている社会なので、旧約時代のイスラエル国家観を範型として「教会と国家」の関係を見ることに、ある程度妥当性があったのだろうと思います。
 しかし、1パーセントのクリスチャンがいるかいないかという現代日本の状況にあっては、むしろ使徒時代の地中海世界における「教会と国家」に範型を求めるべきだと思います。そういうわけで、旧約における国家のあり方でなく、基本的にローマ書13章、黙示録13章の両方を押さえて国家について見るのが妥当であると思います。つまり、俗権の積極的意義付けをローマ書13章からしつつ、その限界と危険性を黙示録13章から認識せよと言っているわけです。

 ただ、初代教会時代とはちがって、現代日本に住む私たちは世俗世界における最高権威は日本国憲法であり、その権威が国民主権を謳っている以上、初代教会時代よりも相当にこの国の政治のあり方に対して責任が重いでしょう。専制君主制の時代とはちがって、国民には主権者として、為政者の行動を監視する責任があります。為政者に敬意を払いつつも、彼が暴走せぬように自制を促すことも、責任の一部です。


3.絶対平和を目指しつつ

 聖書的に見て、人間の罪のリアリティはあきらかです。それで、社会の悪を抑制するために剣の権能が定めらています。しかし、同時に、剣の権能を託された権力者自身もえてしてサタンの誘惑にあって暴走するから警戒せよというのも、聖書の教えです。
 ですが、また同時に主イエスは「1ミリオン行けといわれたら2ミリオン行け」「あなたの敵を愛しなさい」と教えられました。平和を作る者は神の子と呼ばれるにふさわしい。
 容易なことではありませんが、そういう方向を目指しつつ、国家のありかたについても祈り考えて発言していくことが大事だと思います。まとめます。
 
①山上の説教のような絶対平和を希求しつつ、
②黙示録13章にみる国家の暴走(軍国主義)に警戒しながら、
③国家が剣の権能の行使も含めて、民の福利・平和のために正常に機能するようにと祈り支えるべきである。