苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

R13×2

 あした北陸KGK(キリスト者学生会)に招かれて、2.11集会で講演をすることになっている。その1回目の話をここに載せておきたい。

 
 今回のお話は、第一回目は聖書というめがねで「教会と国家」について見てみることにします。第二回目は、いわばその応用として、特に日本のことにフォーカスをしぼったお話をしたいと思っています。
 さて、聖書には国家について二つの大切な13章があります。それはローマ書13章と黙示録13章です。英語ではRomansとRevelationですから、どちらもR13となるわけです。というわけで、今回は数字にこだわって題は「R13×2」としてみました。ローマ書13章のほうは、神が本来的に国家という神のしもべとしての権力をお立てになっている目的について教えていますが、黙示録13章はその国家がサタンに利用されてしまったときの状況について教えています。聖書から私たちが認識すべきことは、現実世界にある国家というものには、この二つの側面、すなわち神のしもべとしての側面と、サタンの道具とされているという側面とがあることをわきまえるべきだということです。

1.国家の権威(ローマ書13:1−7)

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです、神によらない権威はなく、存在している権威は全て、神によって立てられたものです。」(ローマ13:1)

(1)国家は手段であって目的ではない
 ローマ書13章によれば、国家は神に剣の権能を委託された機関である。だが、創世記1章、2章を読めば、そこには剣の権能を託された者は存在しない。創世記が「創造の秩序」として述べているのは、安息日の定めつまり礼拝と、地を従えよ(耕し守れ)という仕事と、結婚という三つである。この時は堕落前だったので、そこには悪を取り締まる権力つまり司法権・警察権としての国家というものは必要なかったのである。
 では、悪を取り締まる権能、これをふつう剣の権能と呼ぶのであるが、の始まりは聖書のどこに記されているか。ある聖書学者は、悪を裁く剣の権能は、堕落後に起こったノアの大洪水の裁きの後に制定されたと理解している。
  「人の血を流す者は、人によって、血を流される。
  神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9:6)
 殺人を犯すものに死刑をもって報いる権力、剣の権能がここに示されていると理解される。もちろんこの時点では、ノアの家族しか存在しないのだから、政府というものがあったわけではないのだが、その原理が表明されたというわけである。
 こうしてみると、国家権力というものは補助的・副次的なものである。礼拝・結婚・仕事という人間社会の営みが堕落した世にあっても正常に行なわれという目的のために、社会の秩序を守る手段として国家権力が立てられているのである。堕落前に国家は不要だったが、人類の堕落の結果、世界は「万人の万人に対する闘争」(ホッブズ)になってしまったので、神は国家という制度を定めた。国家の剣の権能が機能しなければ、北斗の拳のような弱肉強食の世界になってしまうからである。かつてナチスに協力したドイツの神学者たちは、国家というものは「創造の秩序」によるとして称揚し、国家のため礼拝も仕事も家庭も全てをささげることこそドイツ国民の栄光であると宣伝に努めたが、聖書にはそんなことは書かれていない。創世記を読めば剣の権能は堕落以前には存在しなかったし、必要もなかった。国家それ自体は目的でなく、ほかの三つの制度に仕えるための手段にすぎない。つまり人々が神に礼拝生活をし、健全に家庭を営み、労働に励んで文化形成するための外的条件である安全や平和を保つことが国家の役割である。だから使徒パウロは「威厳を持って平安で静かな一生をすごすために」為政者のために祈ることを勧めている(Ⅰテモテ2:1)。
したがって、いかに道徳的な美辞麗句が並んでいようとも「教育勅語」に見られるような、国家=天皇を至高の価値として、国民の宗教生活・家庭・仕事をすべて国家のために仕えるものとして位置づけた超国家主義は、目的と手段を転倒した忌むべき偶像崇拝にほかならない。

(2)たとえキリスト教国でなくても
 ローマ書十三章で「上に立つ権威」と呼ばれているのは、文脈上、剣を帯びた権威であり、税を徴収している権威である(ローマ13:4、6)。つまり、ローマ書が執筆された時代でいうならば、「上に立つ権威」とはローマ皇帝を頂点とするこの世の支配機構のことである。当時ローマ皇帝はネロであり、もちろんキリスト教徒ではなかったし、帝国はキリスト教を国教としていたわけでもなかった。むしろ地中海世界の各都市では、ローマ神話八百万の神々を祀っていたのが、当時の帝国であった。それにもかかわらず、聖書はこの世で「上に立つ権威」は、神によって立てられたものであるというのである。父なる神は、いっさいの権威を、今、すべて御子キリストに委ねられているのであるから、キリストがこの世の「上に立つ権威」を立てていると言ってもよい(マタイ28:18、エペソ1:20,21)。
 教会の主権者がキリストでいらっしゃるというのは、わかりやすい話であるが、キリストのことなどまったく念頭にもない王でさえもキリストの主権の下にあるというのは、ややわかりにくい話であろう。しかし、たしかにキリストの主権は、単に教会の上にだけでなく、この世の「上に立つ権威」の上にも及んでいる。したがって、キリストの主権には広義の普遍的主権と、狭義の教会的主権があるわけである。
 全宇宙の絶対的主権者はキリストである。
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者のなかからよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上 に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:20,21)
 そして、キリストは教会には霊的領域における派生的主権を(マタイ16:18;18:18)、国家には国民の福祉と悪の抑制を目的として世俗的領域における派生的主権を(ロマ13:1-7)、それぞれ依託されているのである。

(3)国家の任務は世俗的業務のみ
 では、ローマ書13章によれば、神は国家権力者にどのような任務を託しているか。委託主権説ということである。2点述べられている。
 第一は、先ほど来申し上げているように「剣の権能」である。司法権あるいは警察権ということができるであろう。悪者を罰して社会の秩序を維持するのが、国家に託された務めの一つである。「したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」(ローマ13:2−5)
 第二は、税を集めるということである。税を集めて公共的なことに用いるということであろう。「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」(ローマ13:6,7)
 注目すべきは、神が国家に託された基本的務めは司法(警察)と徴税という世俗的業務であるということである。その務めをもって社会の秩序を保ち、民の福利をはかるということである。フランス革命で近代国民国家が成立して業務は肥大化し多岐にわたるようになり、そこには国民皆兵制度にともなう国民教育ということが始まり、20世紀になると福祉も国家が担当するようになるのであるが。
 国家というものは、国民が礼拝生活・家庭生活・仕事を快適に行なうことができるための外的な条件を整えるために、その務めに励むとき、神のみこころにかなう神の僕としての役割を果たしているということができる。ところが、えてして、国家はその神が己に託された分を越えてしまうのである。

2. 獣化した国家(黙示録13章)

 国家が分を越えるということが、歴史上しばしば起こってきがちであった。黙示録13章はこのことについて語る。

(1) 海からの獣、竜、地からの獣
 どうして国家権力はしばしば宗教に介入したり癒着したりするのであろうか。その霊的な背景について新約聖書は啓示している。主イエスが荒野で四十日にわたって悪魔の試みを受けられたとき、悪魔は次のように誘惑した。「この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(ルカ4:6、7)悪魔のことばであり、悪魔はうそつきであるから、彼がここで語ることばが真実であるとはかぎらない。本当の国家の主権者はキリストである。だが、悪魔はこのようにして権力を持つ者を誘惑するのである。権力者が永久政権を夢見たり、領土拡張を夢見る時には、悪魔が誘惑をしかけて来るのである。実際、旧約聖書にも見るように、多くの権力者たちはしばしば拝み屋を相談役としてかかえていたり、あるいは自ら占いなどのオカルトに凝っていたりするものである。ヒトラーが黒魔術に凝っていたことは有名な話である。権力者は、ファオスト博士がメフィストフェレスにそうしたように、自分の魂を神々に売り渡すことによって、権力を維持することを望むのである。それらは「神々」を名乗っているが聖書によれば実は悪魔・悪霊どもなのである。
 こうした国家権力と悪魔との関係について、さらに詳細に啓示しているのは黙示録十三章である。
「また私は見た。海から一匹の獣が上ってきた。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」(黙示録13:1)
 海から上ってきた第一の獣というのは、ダニエル書第七章との比較照合してみると、ローマ帝国であることがわかる。獅子はバビロン、熊はペルシャ帝国、ひょうとは瞬く間に広大な領土を手に入れたアレクサンドロス大王の帝国であり、その領土を受け継いだのがローマ帝国だった。ところが、このローマ帝国の背後には竜がいると言われている。竜がこの第一の獣に力と権威を与えるのである。竜とは黙示録の文脈上、悪魔、サタンのことである(黙示録12:9)。この第一の獣と呼ばれる権力者は悪魔に魂を売り渡してこれを拝み、その見返りとして地上の権力と栄光を得たのである。
 かつてイタリア半島の小さな都市国家にすぎなかったローマは、カルタゴ戦争で地中海の西半分を手に入れ、ついでアレクサンドロス死後に分かれたヘレニズム世界の各王朝を次々に倒して地中海世界の東半分を手に入れて大帝国を築き上げた。「あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」といわれているとおりである。黙示録の記者が意識しているのは、ドミティアーヌス帝であると言われるのであるが、かつての共和政ローマでは考えられないことであったが、アウグストゥス皇帝以後、皇帝の神格化が進んで行き、帝国領内の人々には皇帝礼拝が強制されることになっていった。1節にいわれる「神をけがす名」とは「神なる皇帝」という名である。4節「また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言った。」というのは、それを指している。
13:6 「そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。」とありますが、少し時代はくだるが、ウァレリアーヌス皇帝の時代の迫害についてキュプリアーヌスは次のように述べている。「真相は以下の通りである。ウァレリアーヌスは元老院に勅令をおくり、次のことを命じた。すなわち、監督、司祭、執事はただちに罰せられる。キリスト信者である元老院議員、身分のある者、ローマの騎士はその位を下げられ、資産を失う。もし、資産を奪われてもなおキリスト者として留まるならば、斬首刑にあわねばならない。身分のある夫人たちは、資産を取り上げられ追放に処せられる。カイザルの家の者で、以前にあるいは現在信仰を告白しているものは、だれでもみな、資産を失い、鎖につながれてカイザルの農場へ強制労働に送られねばならない。」

 黙示録十三章にはもう一匹の獣が登場する。「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上ってきた。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。」第二の獣の姿は一見小羊キリストのようでありながら、その語る教えは竜つまり悪魔のものである。第二の獣は、第一の獣の国家権力を拝ませることを己の仕事としている。つまり、第二の獣とは悪魔化したローマ皇帝に仕える御用宗教団体またはその指導者のことである。250年に発布されたデキウス皇帝の勅令は、州知事と治安官が、すべての人が定められた日に神々と皇帝の神性にいけにえをささげるのを監督するように命じた。その結果、多くの人々が棄教した。その記録文書が1893年、エジプトのファヨウムで発見された。ギリシャ語で書かれたパピルスである。
リベラスと呼ばれるいけにえをささげた証明書。
「アレキサンドル島の村のいけにえ監督長官へ。アレキサンドル島の村に住むサタブスの息子アウレリウス・ディオゲネス。年齢72歳。右まゆの上に傷跡あり。
 わたしはいつも神々にいけにえをささげていまいりました。またいま、長官の前で、勅令のことばに従っていけにえをささげ、神酒を注ぎ、いけにえの肉を味わいました。このことを証明していただきたく、ここに申請いたします。敬具アウレリウス・ディオゲネス本人提出。
 アウレリウス・シラスのいけにえをささげるところを目撃したことを証明する。
 皇帝カイザル・ガイウス・メッシウス・クイントウス・トラヤヌス・デキウス、ピウス、ペリクス、アウグストゥスの第一年、顕現月の第二日(250年6月26日) 」

 ある権力者が抱くべきではない野望を抱くとき、神々の名を名乗る悪魔にその魂を売り渡し、悪魔から力を得る。そして権力者は、その野望を達成するために御用宗教(偽預言者)を用いて、民を思想・宗教統制する。本来、神が国家権力に委ねた業務は、司法権によって社会の秩序を維持することと、徴税によって富の再分配をはかることなのであるが、権力者はしばしば、それ以上のことをするようになる。すなわち、永久政権を夢見たり領土拡大を夢見たりして、それを実現するために、民の心までもコントロールし、ひどい場合は自らを神格化して民に礼拝を求めるのである。この黙示録第十三章における悪魔と国家権力と御用宗教との構図をしっかりと頭に入れていただきたい。

(2)歴史上の実例・・・フランス革命と近代国民国家の出現
 主イエスは、再臨の前兆について、「これは生みの苦しみのはじめです」とおっしゃった(マタイ24:8)。陣痛というものは、寄せては返す波のようにやってきて、その苦しみが絶頂に達したときにオギャアとなる。そのように、再臨の前兆も歴史の中に小規模でなんども起こりつつ、最後に本番が来るということであろう。
 そこで、歴史上に現れた黙示録的な国家の実例として、フランス革命を取り上げておきたい。フランス革命において近代国民国家が出現した。18世紀末フランス革命において、1793年ジャコバン派ロベスピエールが首班となった。彼はジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』をバイブルとして、「理性宗教」「至高存在崇拝」と呼ばれる市民宗教を創設した。彼はヴォルテールの遺体を「共和国のパンテオン」に安置し、理性の神殿を建立して、イエスソクラテスマルクス・アウレリウス、ルソーらを含む聖人の一覧表を公表した 。ルソーが唱えた市民宗教においては、主権者がその教義を決定する権限をもち、その教義は社会性の意識と同一視され、社会性の意識に欠くならば善良な市民でありえないとされた。「主権者は彼を不信者としてではなく、社会性の意識を欠く人間として、法律と正義を愛することができず、緊急の際に義務のために生命をささげることのできない者として追放す 」べきだという。かくて主権者は「理性宗教」「至高存在崇拝」を拒否する者、兵役をはじめとする国民の義務に背く者を追放あるいは処刑すべきであるとされる。キリスト教礼拝は名目上認められていたが、「自由」の祭壇の前で誓約することを拒否した司祭はすべて、反革命分子として告訴され、ギロチン送りにされた。二千人から五千人の司祭、数十人の修道女、そして無数の信徒が処刑されたという 。黙示録十三章の眼鏡で見れば、ロベスピエールに力と位と大きな権威を与えたのは竜サタンであることがわかる。
 このような事態は、ロシア革命ナチスの時代のドイツ、戦前戦中の日本、中国の共産主義革命、カンボジアポルポト革命、北朝鮮などで再現されている。権力者が愛国心のために民の心まで統制しようとするとき、体制の左右を問わず同様の現象が起こるのである。

(Fête de l'Etre suprême至高存在の祭典 Wikipediaより)
 注目すべきことを一点申し上げて、第一回目のお話を終わりたい。フランス革命によって出現した近代国民国家は、全体主義に傾きやすい構造をしている。フランス革命以前、戦争は王とその取り巻きの軍事貴族階級の仕事であって、庶民は直接この血なまぐさいわざとは関係なかった。そもそも君主制の時代は国境も定かでなく、国民というものが存在しなかった。ところが、フランス革命は王をギロチンにかけて王制を廃止してしまったので、従来、国王の財産であったものの正当な相続者は誰なのかということが問題になった。各派がわれこそは正当な相続人であると主張したためにおびただしい流血が続き、最後はナポレオンが第一統領となって、「国民」なるものが王の財産を相続するということで決着し、ここに国民国家が誕生したわけである 。
従来、人民は領主たちの荘園に所属する農民や自治都市の市民という立場であったから、国王政府と直結していなかった。「フランス人」という自覚は希薄だった。しかし、大革命によって王政が倒れ貴族階級という中間階級が排されると、人民は中央政府に直結した「フランス国民」となって、「国民国家」が成立したわけである。そして、「国民軍」が創設されて、ヨーロッパ各地からやってくる反革命諸国の軍隊と戦争をした。そして、フランス国民軍はめっぽう強かった。国民皆兵であるから兵員はいくらでも補充できるし、祖国la patrieのために戦う兵士たちの士気は、他国の貴族からなる軍隊の士気よりもはるかに勝っていたからである。こうして近現代の戦争は総力戦になっていく。
また、中央政府と国民一人一人が直結している近代国家の構造は、一人の獣的なカリスマによって全体主義に容易に傾きうる仕組みである。たとえばドイツが世界で最も民主主義的だったヴァイマール体制から、瞬く間に合法的にヒトラーの独裁体制に移行してしまったのは、その典型的な例である。パフォーマンスに優れた政治家が、近隣諸国との対決を演出して愛国心に訴えるような劇場型政治を行なえば、大衆はいともかんたんに操作されてしまうことは、我々も近年小泉政権下で経験したことである。警戒が必要である。
近代国民国家では、国民軍の編成とセットで国民教育が始まる。軍隊を組織するためには、均質な知力・運動能力が兵士たちになければならないからである。近代国家の教育機関(文部省)の仕事の眼目は、国民を愛国心に染め上げて、戦争になったら祖国のために勇んで死ぬことができる人間を養成することとなる。黙示録十三章の観点からいえば、近代国民国家における文部省は、ほぼ必然的に「地から上って来た第二の獣」つまに偽預言者の役割を担うことになる。