苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

勇気を出しなさい

              使徒22:22−23:11
              2011年1月30日 小海主日礼拝 説教要点

 パウロの証を聞いたエルサレム神殿の群集は誰ひとり悔い改めず、暴徒と化したので、千人隊長は、パウロが何者かを調べるため、彼をローマの鞭による拷問にかけようとした。鞭打たれる者はしばしば絶命すると言われた悪名高いローマの鞭である。ローマに福音を伝える使命を帯びたパウロは、ここで死ぬわけには行かない。そこで、彼は「ええい。頭が高い。控えおろう。ここにおわすを誰と心得る。」とばかりに、自分がローマの市民権を持っていることをあきらかにする。ローマ市民は、正式な裁判を受けることなしに、いかなる刑罰にあわせてはならず、それを破った役人は厳罰に処せられた。千人隊長とローマ兵たちは恐れて手を引いた。パウロが宣教のために、神の道具である上の権威ローマ法を適切に用いた知恵に学びたい。

 翌日のサンヒドリンでの証言では、パウロはもはや前日語ったようにキリストとの出会いにかんする証言を繰り返そうとはしなかった。かえって、パリサイ派サドカイ派の間に論争を引き起こして、議会を混乱させて、彼はローマの兵営に再び戻されてしまう。パウロは前日の経験から、彼らに福音を語ることは「豚に真珠」と思ったのであろう。

 神殿の大群衆を前にしても、ローマのいかめしい千人隊長を前にしても、サンヒドリンでも、実に堂々としたパウロだった。しかし、主イエスはその夜パウロに現われておっしゃった。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」パウロとて生身の人間であり、鉄の心臓を持っていたわけではない。その心に恐れがあったからこそ、主イエスは「勇気を出しなさい」とおっしゃった。
 パウロの恐れの第一は孤立感から来たものであろう。今までは同労者たちとともに戦ってきた宣教のたたかいであったが、今、兵営で囚われの身となり夜の帳が下りたとき、彼は自分がひとりぼっちであることに不安を感じた。そこで主はパウロとともに居るのだということを表わしてくださった。キリスト者の勇気の秘訣の第一は、主イエスがともにいてくださるというインマヌエルの事実である。
 パウロの恐れの第二は、自分は伝道者として役立たずだという思いだったろう。前日のエルサレム神殿で群衆を前に、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰を説いたのに、ただの一人の回心者も得られなかったからである。しかし、主はパウロに言われた。「あなたはエルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」<人の目に見える実りはなくとも、確かに君はわたしの証人としての任務を果たしたことを、このわたしが認めている。だが、エルサレムは君の召しの地ではない。わたしは君をローマへと召している。>という意味である。キリスト者の勇気の秘訣の第二は、人の目による評価を離れ、主の賜った任務を悟り、これに生きることである。そのとき、わたちのうちに御霊による勇気が満ちる。

 カワセミ   のまちゃん牧師のブログより