苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史1 古代の終焉・中世の始まり

「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」黙示録14:8b

1.西ローマ帝国の滅亡
<主要事件年表>
395年   ローマ東西に分割
410年   西ゴート王アラリック、ローマに侵入。
449年 アングロ・サクソン族、ブリタニアに侵入
452年 ローマ教皇レオ1世、フン族のアッチラを交渉で退去させる
476年   傭兵隊長オドアケルにより西ローマ帝国滅亡
(1)ゲルマン民族の移動
 4世紀になると、中央アジア方面よりフン族という遊牧騎馬民族が向かってきた。フン族については、中国漢の武帝(156-87AD)が圧迫したために忽然と姿を消した匈奴がはるばる西に移動してきたものではないかという説は広く知られる。このフン族は、黒海北岸のゲルマンの一派・東ゴート族を従属させ、ほかのゲルマン諸族が大移動を始めた。これが、ゲルマン民族の大移動と呼ばれるものである。
 そして中部ガリア(今のフランス地域)にはブルグント族、北ガリアにはフランク族ブリタニア(今のイングランド島)にはアングロ=サクソン族、北アフリカの旧カルタゴの地域にはヴァンタル族が移動し建国する。また、375年西ゴート族西ローマ帝国に助けを求め、ドナウ川を越えて「みなごっそりと(375)」領内に入る。ゲルマン人たちはラテン人よりも体躯も大きく、戦闘力にすぐれていたので、帝国中で傭兵などとして出世していく者も現れてきた。
 また西ゴート以外でも、西ローマ領内へある部族は平和理に、ある部族は侵入という形で入り込むようになり、もはや西ローマにこれを防ぐ力はなかった。408年ゴート族がローマを包囲した。飢餓と疫病によってローマは埋葬されない死体がごろごろしており、人肉を食べるほどに窮した。410年8月24日、ついにローマはアラリック率いるゴート族にローマは3日間に渡り略奪される。永遠の都と呼ばれたローマは蛮族に陵辱された。 この事件の衝撃がアウグスティヌスに「神の国」を書かせたというのは周知のとおりである。

(2)フン族西ローマ帝国の滅亡
 さてこの頃のローマ帝国は東西に分割され統治されていたが、コンスタンティノープル東ローマ帝国と、ローマの西ローマ帝国では国力に大きな差があった。というのも、東は人口も多く、農業基盤も整備され、また熟練した政治家が統治していたが、西では、生産能力が低く、また統治者も若い貴族が出世への過渡的な役職として働き、傭兵を雇うために都市に重税をかけ、経済を没落させた。そんなわけで、東ローマ帝国では西は自分たちの宗主権下にあると考えていた。

 そんな中、再び動きを見せたのがフン族フン族の王アッティラ(位434〜453年)は、彼は従属させている東ゴート族の軍勢を引き連れ、まずは東ローマ帝国へ。皇帝テオドシウス2世の軍勢を打ち破り、コンスタンティノープルに迫るが、この城塞都市を落とすことは出来ず、賠償金を貰い撤退。続いて、ガリアに侵入。この時は西ローマ帝国の軍勢にまさかの敗北を受けた。が、立て直すと452年にはローマへ向かう。
 それを救ったのがローマにいるキリスト教の司教レオ1世である。彼は、アッティラを「こちらに来ないで、『あてぃら』に行って」と説得し、これを思いとどまらせた。そして、翌年アッティラは死去。これにより、フン族はバラバラになり歴史上から姿を消した。この出来事に象徴されるように、西方では俗権が弱かったので、教皇の力が強くなっていく。

 そして西ローマ帝国はいよいよ「死なむ(476)」とする。476年、西ローマ帝国では傭兵隊長オドアケルが「ゲルマンに土地を!」と皇帝ロムルス・アウグストゥスに要求し、拒絶されたことから反乱を起こす。これを滅ぼし、自ら王を名乗ってオドアケル王国を建国。そして、東ローマ皇帝ゼノンに要求して、パトリキウスの称号をもらう。オドアケルは東ローマ皇帝の代官として、ローマ帝国の西方地域を支配した。支配者というものは、自分がただのやくざでなく正統な者であることを証明するための伝統ある肩書きが必要なのだった。わが国の歴史を見ても、戦国の終わり、信長は右大臣を、秀吉は関白を、家康は征夷大将軍天皇から得ることで、その支配権の正統性を裏づけようとした。日本において天皇は伝統的価値の体現者であった。それはともかく、こうして西ローマ帝国は姿を消し、古代社会が終わった。

 東ローマ帝国はその後ギリシャ語を公用語にするなど、次第にローマ文化からは離れていき、さらに後に勃興するイスラム教世界の影響も少なからず受けることになる。そのため、コンスタンティノープルの旧名のビサンティウムをとって、ビサンツ(ビサンティン)帝国といわれるようになる。

 もう一つ重要なのは西方地域における商業の衰退と、農業を主産業とした封建制への移行である。ローマ帝国は金貨を鋳造し、これで東南アジアにまで貿易の手を伸ばしてきたが、西ローマ帝国末期には貨幣を改悪し、経済が混乱してしまう。加えて滅亡後は、有力者が貨幣を好き勝手に鋳造するものだからいよいよ通貨の信用がガタオチになる。
 また、奴隷制度も変わる。奴隷から隷属的な小作人(コロヌス)から地代を取って自給自足をする小作制が一般化し、後の農奴制の先駆となった。

 上述したようなさまざまの要因があって、西ローマ帝国は滅亡することになるのであるが、これらのさまざまの要因の根本的原因は、気候の変動にあったという研究が最近なされている。(つづく)