苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

教会史15 西ローマ帝国の復興――カール大帝の人物と戴冠

 768年ピピンが没し、その子カール(シャルル)が後を継いだ。彼は軍事的にもすぐれた人物で、ザクセン族を平定、ランゴバルドを併合、アヴァ−ル族、イスラムを破って辺境守備を行ない、かつての西ローマ帝国の大半を含む大統一を成し遂げた。その領土面積は、すでにバルカン半島の一部を保つに過ぎないほど弱体化していた東ローマを上回った。そして、ここに行政制度、教区制度を整えた。またカールは単なる軍人や政治家ではなく、敬虔なキリスト教徒であったことは確かである。789年彼が子どもたちのために学校を設立することについて記した「一般的訓戒」を見れば、彼の信仰がうかがえる。
 「神の祭壇に仕える者は、良い行いをもってその奉仕の飾りとすべきである。また、規則に従う他の修道会、修道士の集まりも同様にすべきである。・・・「そのように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、そして、人々があなたがたのよい行いを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」そうして、われわれの模範によって、さらに多くの人が神に使えるようになるためである。奴隷の身分にある者の子供たちばかりでなく、自由な者の子らをも彼らに加わらせ、ともに交わらせよ。また、男の子たちが読むことを学びうるように学校を創立せよ。しばしば、人は神の前に正しく祈りたいと願いながらも、不正確な本のためにまちがって祈りがちであるから、各修道院または司教区において、詩篇、書く場合の記号、歌、暦、文典、カトリックの書物を正しく直すべきである。云々・・・」(ベッテンソンp156)

 800年には、教皇レオ三世はフランク国王カールに冠を授けて神聖ローマ帝国を成立させ、滅亡していた西ローマ帝国を復興させた。800年秋、前年にレオ三世に反対派が加えた傷害事件をさばくためにカールはローマに上っていた。12月23日、レオの立場が認められて事件は落着。翌々日は25日クリスマス。聖ペテロ寺院をカールは訪れる。ミサに連なる前にカールは告解所でひざまずいた。そのとき、レオ三世は、手にした「高貴な冠」をカールの頭上に載せた。そして言った「気高きカール、神によって加冠され、偉大にして平和的なローマ人の皇帝万歳。」すると、満場の聖職者と貴族らは声を合わせて三唱した。ついでカールは古式にしたがう教皇の臣従礼を受けた。
 このときから、カールは東ローマ皇帝から受けていた「ローマのパトリキウス」なる称号をやめて「インペラトール(皇帝)にしてアウグストゥス」と呼ばれることになる。
 この出来事の意義。一つは、名目的なものであったにせよ、法理的には東ローマ帝国に属していた西方ヨーロッパを独立させたということである。これは先にも述べたように東ローマ帝国というものがあったがゆえに、西方もまた一つの帝国という意識を維持しえたということから来ていよう。そうでなければ、もともとゲルマンは部族連合というのが伝統的な生き方であって、今日でもドイツは連邦の形を取っている。実際、カール大帝の死後、西方は息子たちに分割統治されることになる。
 この出来事から皇帝と教皇の微妙な関係がうかがえる。教皇がカールに戴冠して皇帝にした。実は教皇による皇帝の戴冠というのは、史上初めてのことである。途油はあっても戴冠はなかった。そして教皇はカールに対して臣下として服従するという。この微妙な緊張関係。
 しかし、当時はローマ教皇の実力は、まったく微弱なものであって、到底カールに及ぶものではなかった。カールは自分の息子皇太子には共同皇帝をさせるときに、自己戴冠させている。カールは、西ローマ皇帝として、コンスタンティヌス大帝以来の皇帝教皇主義を意識したものであった。
 皇帝が教会に対して持っている権限の一つは、コンスタンティヌスがしたように司教の叙任権である。組織を握るということは、人事権と財政権を握るということである。この司教叙任は「指輪と司教杖」を用いて、皇帝によってなされた。指輪と司教杖は司教の司牧権をあらわす象徴であるから、この儀式によって皇帝の精神的権威が確認された。皇帝が教会の上に立つということを意味したのである。皇帝が任命した司教によって教会の教区は支配される。

 しかし、レオ3世のカール戴冠という行為は、まったく伝統を無視したことであったかというとそうでもない。西方教会では、4世紀のアンブロシウスが罪を犯したテオドシウス帝に悔い改めを求めた事件以来、信仰上の問題に関しては「教会がキリスト者皇帝をさばくのが習慣であり、皇帝が教会をさばくべきではない。」とし、「皇帝は教会の内にあるが、教会の上にはない」とされた。六世紀のグレゴリウス大教皇は、西方の盟主としてローマ教皇の地位を東ローマ帝国に対して主張した。こうした伝統にのっとってレオ三世は、サムエルがダビデに油を注いで王としたように、カールを西ローマ皇帝として立たせた。しかし、814年にカール大帝が死ぬと、843年のヴェルダン条約で国は東フランク、西フランク、イタリアに三分される。やっぱりゲルマン民族というのは、ラテン民族とちがって巨大な帝国を立てることを好まないのである。