苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ああ、エルサレム、エルサレム

通読箇所 マタイ23章13-39節、出エジプト28,29章

マタイ23:37
ああ、エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

 主イエスエルサレムに対する嘆きは、王国時代に遣わされた神の預言者たちの嘆きと重なる。神は、イザヤ、エレミヤ、ホセアといった預言者たちを次々と遣わして、神への愛と隣人愛の教えに背く不義を悔い改めて、トーラーに立ち返れと警告し続けられた。そのように預言者たちを送り、悔い改めを促がして来たのは主イエスご自身であると嘆いていらっしゃる。
 「旧約の神は怒りの神で、新約の神は愛の神である」という、グノーシス主義的な見方は薄っぺらい。よくよく福音書を読むならば、イエスは罪に対して激しく憤る峻厳な神であり、よくよく旧約の預言書を読むならば、主はご自身の民のためにはらわたをわななかせる愛の神である。近代主義神学が非難の的にした「なだめの供え物(ヒラステーリオン)」についてJ.マーレーが書いた深いコメントを思い出した。

 「なだめることは、神の怒りを愛に変えるものではない。キリストの贖いのみわざによって神の怒りをなだめることは、実は神の永遠不変の愛によって備えられたものである。・・・怒っておられる神が慈愛に満ちたかたに変えられるというのと、怒っておられる神は慈愛に満ちたかたであると言うのとでは、そこに雲泥の差がある。前者は誤りであり、後者は深い真理である。」(『キリスト教救済の論理』)