苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン4月2日   慰めよ 慰めよ

イザヤ40:1
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と
  あなたがたの神は仰せられる。(新改訳)


あなたがたの神は言われる、
「慰めよ、わが民を慰めよ、(口語訳)


なんぢらの神いひたまはく なぐさめよ汝等わが民をなぐさめよ (文語訳)


慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。(イザヤ40:1)

 翻訳上にさしたる異同はないが、一点だけ挙げれば、新改訳のみが「慰めよ、慰めよ ナハムー、ナハムー」と繰り返しているのが印象的。ヘブル本文の勢いを生かそうとしたのだろうし、それが成功しているように感じる。
 いったいに、預言書というのは、その構成がよくわからない。39章にはヒゼキヤ王をバビロンの王の使者が訪問した記事があり、その末尾にバビロンによるエルサレム滅亡の預言がイザヤによって語られた。
 40章にはいって、いきなり、「ナハムー、ナハムー」と来る。piel,命令、男性複数。だが誰が誰を慰めるのか?御使いたちなのか?預言者たちなのか?
 慰める対象はエルサレムである(2節)。その労苦は終わった、と。さらに、3節から5節に行くと「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ。・・・』」とバプテスマのヨハネにおいて成就するメシヤ到来直前の事態をさすことば。メシヤ到来によって、エルサレムが慰められるということである。・・・しかし、メシヤ到来を拒むエルサレムは、結局、ローマ帝国に滅ぼされるのだから、「慰めよ、慰めよ」はどうなったのだろう?
 さらに6節から8節では、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」と、すべて人間の栄光のむなしいことを呼ばわれ、という。エルサレムを滅ぼして高慢のきわみにあるバビロンの行く末を告げることばと解されよう。後年、使徒ペテロは、ローマの繁栄とかつてのバビロンの繁栄と重ねあわせて、このイザヤのことばを引用している。ローマは第二のバビロンとしてエルサレムを滅ぼすが、自らもやがて草のように滅びてしまう。
 さらに、「シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ・・・・」とローマ書10章にもややこだますることば。
 イザヤ書は、新約聖書にこだまする印象深いことばが多くちりばめられている。だが、むずかしい。
 考えてみれば、預言が成就して行く神の摂理なさる歴史の展開も複雑であり、繁栄した国は滅亡にむかっており、うち滅ぼされたと思われた国が慰められて立ち上がる。人の目に成功と映るものがえてして神の前では失敗しており、また、その逆もある。だとしたら、かつてのように世界の「一等国」の仲間入りを目指している指導者に導かれるわが国の姿は、神の前にどう映っているのか。