苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

新自由主義経済の破綻の理由

 ひさしぶりに文藝春秋2月号を読んだら、新自由主義経済の破綻について記されていた。
 市場原理主義に立つ新自由主義経済は、格差はひろがるが、経済活動は計画経済とちがって競争が働くから活性化するのだというのが売り物だった。だが、実際の数字を見てみると、市場原理主義が導入された結果、格差が急速に拡大すると同時に、経済活動も不活発になって経済成長率が衰えていることがわかった。
 理由は単純である。新自由主義によって、経済競争があまりにも激しくなったために、各企業はとにかく生き残るために、目先の利益のみを追い求めるほかなくなってしまった。その結果、長期的な見通しをもって設備投資をしたり、長期的見通しをもって人材育成をしたりということができなくなったので、中長期には企業の開発力も生産力も衰えてしまったからである。
 もうひとつ理由がある。格差拡大政策によって作り出された大多数の貧乏な人々は購買力がないからである。これでは経済が落ち込むのは当然である。日本は外需は10数%に過ぎず、内需が80数%なのだ。大多数の庶民を貧しくなるままにしておけば、経済が回らなくなるのは理の当然である。
 読んでみると、こんな結果になることなど、少し考えればわかりそうなものだと思うのだが、なんともお粗末は話だ。
 「市場原理」というのはその道の経済学者の世界では、疑うべからざるドグマになっていて、もしこれに疑いを表明すれば経済学の世界で相手にされなくなってしまうという状況なのだそうである。だから、学者たちはこれを批判する論文を発表することができないという。およそ学問的ではない状況だが、こういうことはありがちなことである。日本の原子力学会で原発は危険だとか表明すると居場所がなくなったのと同じである。


 旧約聖書に見える「安息の年」や「ヨベルの年」が意味することは、自由な経済活動を認めているが、無限の自由を認めるわけではなく、一定の制限下における自由な経済活動を認めているということである。
 経済活動をまったく無規制で放置すれば、富者はますます富み、貧者はますます貧しくなる。弱肉強食である。だが、弱肉強食がひどくなると、弱者がやせ細りすぎて、強者も栄養不良になってしまう。弱肉強食状態が極端になると、中長期を見とおした経営ができず、消費者の購買力が落ち込むので経済活動は不活発になる。現在の日本である。他方、経済活動を完全に国家の統制の下に置けば、平等な社会を来たらせることができようが、経済活動が活性化する道理がない。また、経済活動を完全に国家の統制の下に置く、強力な警察力を握る政府が特権階級化してしまう。ベルリンの壁崩壊直前のソ連と東欧諸国のように。
 そこで、肝心なことは、自由と平等を両立させるためにバランスをとることである。そのためには、適度な規制のもとにおいて自由な経済活動を認めることである。市場原理主義も計画至上主義もまちがいである。なんであれ、「主義」というのは中毒であり偶像崇拝であって、まちがいのもとなのだ。