苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「心がこもっているから」といって・・・

 「13:3また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。 13:4会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。
13:5そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。 13:6そしてダビデとすべてのイスラエルはバアラすなわちユダのキリアテ・ヤリムに上り、ケルビムの上に座しておられる主の名をもって呼ばれている神の箱をそこからかき上ろうと、 13:7神の箱を新しい車にのせて、アビナダブの家からひきだし、ウザとアヒヨがその車を御した。 13:8ダビデおよびすべてのイスラエルは歌と琴と立琴と、手鼓と、シンバルと、ラッパをもって、力をきわめて神の前に踊った。
13:9彼らがキドンの打ち場に来た時、ウザは手を伸べて箱を押えた。牛がつまずいたからである。 13:10ウザが手を箱につけたことによって、主は彼に向かって怒りを発し、彼を撃たれたので、彼はその所で神の前に死んだ。 13:11主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。(歴代誌上)

 神の箱を持ち帰ること自体はよいことだった。また、彼らは神の箱をもどすことを心から喜んで賛美をささげたこともよいことだった。しかし、これを戻すにあたって、牛の牽く車に載せたことはまちがいだった。本来、律法によれば、四人の祭司がこれを担ぐべきだったのだが、彼らはそれを忘れていたのか、あるいは知っていたが自分たち流でよいと考えたのか、あるいは異教世界にそういうやり方があったのをまねたのか定かではないが、とにかく彼らは牛の牽く荷車に載せた。そのことはウザの割り込みと死という悲劇を招くことになる。
 旧約聖書を読むと、特に神礼拝にかかわることで、ときどき、この「俺流」による過ちと悲劇が起こっている。カインのささげもの、アロンの息子たちの異なる火。主を礼拝することに「心がこもっている」ことはもちろん大事なことである。だが、「心がこもっているのだからやりかたは俺流でいい」というのは間違いである。そこにこもっている「心」は、みことばをも押しのけてしまう傲慢な心だから。
 ほんとうに心がこもっているならば、礼拝を受けてくださる神ご自身のみことばにかなう礼拝のありかたを求めるものである。