苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

日航123 ボーイング747の思い出

下に掲げるのは、 昨年春、書いた文章である。 

 昨年3月1日、JALの旅客機B747が最後のフライトを終えた。筆者は、それほど飛行機に乗る機会のない人間だが、ジャンボジェットB747には深い印象がある。ダグラスDC8から選手交代をして、この旅客機が活躍したのは右肩上がりの時代であり、B747はその時代の象徴であった。

 しかし、私の世代にとってはB747には恐ろしい記憶もつきまとっている。1985年8月12日に起きた日本航空123号機墜落事故である。歌手の坂本九さんがこのとき亡くなっている。その墜落場所は、今私が住む小海町の隣の北相木村群馬県の県境にある山中なのである。搭乗者524名中520名が死亡という事故だった。友人のFが松原湖バイブルキャンプで奉仕をしていたとき、B747は見ていないのだが、二機の軍用機を目撃している。
 当時の事故後の公式発表では、修理が十分でなかった圧力隔壁が経年劣化で吹き飛んだことによって、垂直尾翼が破損したことが原因で、正常に飛べなくなって墜落したということだった。また2機の追尾していた自衛隊機についてはなんら発表されなかった。ところが、ごく最近になって、この事件には不審な点が多く、この公式発表に反する証拠が近年いくつも挙げられていることをたまたま知った。
 123号機は羽田を離陸して相模湾上空を飛行中に垂直尾翼が破損したのだが、もし圧力隔壁が破損したなら当然機内は空気圧が急激に下がるはずなのに、実際には減圧はあったが、それほど激しいものではなかったことが明らかになっている。1つは生き残った人々の証言による。また管制との通信で機長はマスクをつけていない。さらに事故当時の機内の写真があって、そこでは酸素マスクは天井から垂れ下がっているけれども、乗務員も乗客もマスクをしていない様子が映っている。圧力隔壁に少しはひびがあったとしても壊れていないのだ。また相模湾上を飛ぶ123便に赤い飛来物が近づいているという乗客の証言がある。このことからすると、123号機の垂直尾翼は、相模湾上空で、なんらかの赤い飛来物にぶつかって折れて取れてしまったと解釈するのが穏当だろう。(2024年8月追記:今から10年前、政府機関は垂直尾翼が外的な圧力によって破壊されたという説明を突然HP上にこっそり発表した)
 123号機の機長は腕利きのパイロットで、垂直尾翼を失ってもなんとか高度を保ちつつ、当初、羽田帰還をめざしたが、それでは無理なので横田基地着陸をめざして自衛隊機の誘導を求めている。ボイスレコーダーを聞くと横田基地も当初通信で受け入れを許可し、123便は旋回しつつ着陸を目指している。ところが、ボイスレコーダーの数分の沈黙の後(公開されているものはここがカットされている)、123号機は横田基地とはまるで異なる方向に向かい、(2024年追記:長野県川上村のレタス畑に不時着をしようとしたが、なぜか取りやめて)最終的に長野県南佐久郡北相木村の奥の御巣鷹山群馬県上野村)に墜落してしまった。だがそれは墜落というより、不時着であった。だからあの4名以外にも、相当数(100名と言われる)人々がけがはしたものの息があったということがわかっている。
 墜落が12日18時56分であったのに、日本の救援隊が現場に到着したのは遅れに遅れて14時間後だった。当時、報道を聞いて気をもみながら、「ずいぶん山奥の現場なんだなあ、セスナ機はらともかく、ジャンボ機の墜落現場がそんなにわからないものかなあ」と不自然に感じた記憶がある。これは日本中の人々が感じたことである。2機の軍用機が123便を追尾していたことを考えると、どう考えても時間がかかりすぎなのである。(2024年8月追記:実際、群馬県上野村村長は事故後ただちに政府関係者に、飛行機が墜落したことを通報しているのである。)
 ところが、1994年9月25日。テレビ朝日「ニュース・ステーション」では「米軍幻の救出劇」と題して、新しい事実を報道した。事故のわずか30分後、12日19時30分前に、米軍C30輸送機のマイケル・アントヌッチ航法士は123号機墜落現場を発見して、横田基地に正確な位置を知らせていたのである。さらに座間の米軍は20時30分には救難ヘリを現場に急行させたが、自衛隊側からの要請で救難活動をやめて基地に戻った。(2024年8月追記:生き残った人の証言でも、ヘリコプターが救出に来てくれたと思ったら、去ってしまったとのこと。闇の中、あちこちから息が聞こえて「がんばろう」「がんばろう」と声を掛け合っていたとのこと)ところが、政府・自衛隊の当時の発表では、翌日明るくなるまで、場所がわからなかったというのである。これは虚偽の発表であると言わざるをえない。
 14時間後、上野村消防団の人々が入ったが、彼らがそこで見たものは真っ黒に炭化した多くの遺体。そして、彼らの証言では「ガソリンとタール臭がした」という。ちなみに航空機燃料はケロシンという灯油に準じるものであり、そんな臭いはしないし、遺体を炭化させるような火力はない。事故のことは最初からわかっていたが、14時間後の発表までの間、政府・自衛隊は何をしていたのか?
 というわけで、この墜落事故は謎だらけなのである。ちなみに、当時の首相は中曽根康弘である。

謎1.相模湾上空で123号機の垂直尾翼を吹き飛ばした赤色の飛来物とはなんだったのか?
謎2.自衛隊横田基地はなぜ123号機を拒否し、その後、123号機は御巣鷹山方面に向かったのか? 事故時に墜落現場方面に飛来した2機の軍用機はなにをしていたのか?その2機の軍用機の動きについてはなんら公表されていないのはなぜか?
謎3.自衛隊は墜落後1時間足らずのうちに米軍から墜落地点を知らされながら、何をしていたのか?
謎4.「事故現場発見」までの14時間、政府と自衛隊はいったい何をしていたのだろうか? 

★JAL123便事故については、いろんな人が調べているようです。
http://intec-j.seesaa.net/article/51849649.html
http://ugyotaku.web.fc2.com/JAL123Sinsou/JAL123Sinsou.htm
 
追記2024年8月 青山透子『日航123便墜落の新事実』(河出書房新社)を読んだ。厳密に、現場の目撃者の証言に取材した上で、上記の謎に対する答えが示唆されている。また、この書に基づいて森永卓郎氏は『書いてはいけない』(フォレスト出版)を書いている。