今、教会の祈り会では申命記の律法を順々に学んで25章まで来た。それらの律法の多くは、いわゆる司法的律法と呼ばれるもので、当時のイスラエル社会の中では有効であったが、新約の時代の各民族・各国のキリスト者たちにそのまま有効なものではないとされる。たしかに、日本に法律があるかぎり、そのまま適用するわけには行かないことがほとんどと言ってもよい。
けれども、その根底に流れている思想とか、モーセを通してこの律法をお定めになった神がどのようなお方であるのかということを、垣間見ることができて、なかなか興味深い。そうして、現代の日本に住んでいる私たちの「常識」がずれてしまっているのではないかと反省もさせられる。
たとえば、有名なところでは、こんな福祉的律法がある。
24:19あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。 24:20あなたがオリブの実をうち落すときは、ふたたびその枝を捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。 24:21またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。 24:22あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。
この律法のゆえに、神の民イスラエルのなかでは、みなしご、やもめ、在留異国人といった社会的弱者も飢えることがなかった。ルツとナオミはこの戒めのゆえに、生きながらえることができた。「俺の畑に実ったものはみんな俺のものだ」という価値観はまちがっている。神は、私たちに対して、隣人にほどこすための分までも余分に与えてくださっているのであるから、すべての収穫を自分のためにのみ用いるとしたら、それはむさぼりの罪なのである。
主はあわれみの神である。
他方、現代人の「常識」からは、これは厳しいと感じられる律法もある。たとえば、婚約者の責任、結婚にともなう責任を重いものとされ、不倫は極刑にあたる大罪とされた。
22:23もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、 22:24あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またその男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
また、主は卑怯者を非常に憎まれるお方であることが、誘拐犯は極刑という戒めから読み取れる。
24:7イスラエルの人々のうちの同胞のひとりをかどわかして、これを奴隷のようにあしらい、またはこれを売る者を見つけたならば、そのかどわかした者を殺して、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。
見よ!神のいつくしみと厳しさを。