苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

あなたはどこにいるのか?(人間2)

創世記2章15−17節、3章1−13節
2012年3月4日 小海主日礼拝


1 善悪の知識の木

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 神様はエデンの園の中央に善悪の知識の木を定めて、アダムに対して、この木からだけは食べることを禁じました。善悪の知識の木とは何を意味したのでしょうか。一言で言えば、それは、神様の主権です。神様はエデンの園を人間に託されましたが、この木を見るたびに、この園を託してくださった神様を忘れないためのよすがとされたのです。
 この木が善悪の知識の木と呼ばれたのもそのせいです。善と悪とを決定することは人間にはゆだねられていない。それは、神がお決めになるのだということです。なぜこの木から食べてはいけないか。それは、神が「この木から食べることは悪であり、食べないことが善だ」と決定なさったからです。ですから、逆に言えば、人が善悪の知識の木から盗って食べるということは、神の主権を拒否して、自分が神になろうという反逆の表明にほかなりませんでした。
 そして、神様はいのちの源ですから、その神様に反逆することはすなわち死を意味しました。「それをとって食べるとき、あなたはかならず死ぬ。」


2 サタンの策略

(1)サタンの紹介
 さて、神からの祝福を受け神との交流のうちに喜ばしい歩みをしていた人をねたんだ者がいました。サタンです。サタンは人間を誘惑して神から引き離そうとしました。サタンというのは、もともと神のしもべである天使のひとりだったようです。それが自ら神のようになろうと思い上がった結果、堕落してしまったのです。イザヤ書には、これはバビロンへのさばきを語りつつ、それを超えてサタンの堕落をさしたことばではないかと昔から言われている箇所があります。

「14:12 暁の子、明けの明星よ。 どうしてあなたは天から落ちたのか。
  国々を打ち破った者よ。  どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
14:13 あなたは心の中で言った。  
 『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
  北の果てにある会合の山にすわろう。 14:14 密雲の頂に上り、
  いと高き方のようになろう。』
14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」


(2)神のことばを疑わせる
 天から追い出され地獄に定められたサタンは、人間をもその地獄に引きずり込もうとして誘惑をしかけてくるのです。サタンはへびに取り付き、まず女を誘惑します。

3:1 さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 サタンは、女の注意をあの善悪の知識の木に向けさせます。たった一本例外的に食べることを禁じられた木なのに、「神は園のどんな木からも食べてはならないと言われたのか」と聞いて、神がけちだというイメージを彼女の心にすべりこませるのです。
 すると、女はまことに不正確な答えをしてしまいます。サタンは狡猾ですから、不用意に答えてその口車に乗せられてはいけないのです。

3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

 神は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」とおっしゃいましたが、女は「触れてもいけない」と付け加えました。神は「必ず死ぬ」とおっしゃったのに、女は「それを取って食べるとき、あなたがたが死ぬといけないからだ。」と水増ししました。神のことばに混ぜ物をしたのが、女のあやまちでした。

(3)サタンは神を誹謗し、女を仲間にした
 するとへびは、ただちに畳み掛けて言いました。

3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 内容はとんでもないことです。へびは、神はうそつきであると言い、かつ、神はケチであると誹謗中傷したのです。悪魔というのはギリシャ語ではディアボロスといいますが、その意味は悪口を言うやつという意味です。その名のとおり、悪魔は神の悪口を言ったのです。
そうして、へびは女のなんだかおもしろそうだわという好奇心つまり目の欲、おいしそうねえという肉の欲、賢くなれば鼻が高いわという虚栄心という三つの欲望を刺激したのでした。

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。


 彼女が善悪の知識の木を食べたとき、彼女はどうなったでしょうか。きよい神のようになったでしょうか?いいえ、彼女は悪魔のようになり、悪魔の共犯者となって今度は自分が夫を誘惑したのです。
  悪魔の策略というものは、第一に神の言葉を疑わせるということ、第二に神に対して不信感を抱かせること、第三に欲望に働きかけるということです。そうして、いったん誘惑に敗れると悪魔の共犯者とされてしまいます。警戒しなければなりません。今日でも悪魔は私たちのうちにささやきかけてきます。「その聖書のことばは本当か?」「神はほんとうに愛なのか?正義なのか?」「おまえは神よりも賢くなりたくないのか?お前の欲求をわたしが満たしてやろう。」と。誘惑に屈してはいけません。悪魔の仲間にされてしまいます。



3.堕落した人間

(1)性器を覆った・・・自分の欲望をコントロールできなくなった
 サタンの誘惑にのせられてしまった人間は、どうなったでしょうか。まず彼らは自分が裸であることに気づいて性器を隠したといいます。もともと彼らが盲目であったわけではありません。裸であることに気づいて、自分の性器を隠したというのは、彼らが自分の性欲を自分でコントロールできない状態に陥ったことを恥じたということを意味しています。本来的には、性欲は正しい理性と意思のコントロールの下に置かれているかぎりはよいものです。
 しかし、強い性欲を自分でコントロールできないというのは、まことに惨めな状態です。その人は欲望の奴隷となって、けだもののようになってしまっているのです。
 性欲に代表しましたが、性欲だけでなく、神様に背いたとき、人は自分で自分の欲求をコントロールできなくなってしまいました。「あんなこともうしたくない。」と願いながら、またその罪を犯してしまうのです。そして自分の欲望で自分の人生ばかりか周囲の人々の人生までも狂わせてしまいます。神にそむいたとき、人のからだの中でもそむきが起こったのです。肉体(性欲)が、理性や意志に反逆したのでした。これが堕落してしまった後の人間の惨めな状態です。

(2)無責任な卑怯者になった
 神様は「あなたはどこにいるのか?」とアダムに問われます。このとき、アダムはなんと答えたでしょうか。

3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 男は、「はい、私はここにおります。私が罪を犯しました。」といえば良いものを、「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と答えます。罪を犯した時のつまらない言い訳、無責任、責任転嫁、これが罪に陥った惨めな人間の特徴です。女もそうでした。「へびが私を惑わしたのです。」無責任、責任転嫁、つまらぬ言い訳をする卑怯者です。
 ああ、しかし、これは遠い昔の人だけの話ではなく、罪を犯した時の私たち自身の姿と寸分ちがわないのではないでしょうか。こんな話をしているときは、他人事のようにフムフムと思っているのですが、実際に、自分がちょっとした間違いを犯して誰からか非難されそうな立場になると、努力もしないのに、内側からつまらない言い訳や、責任転嫁のことばが湧き上がってくるというのが、私たちの実態なのです。残念ながら私たちはアダムの子孫なのですね。



4.神が人をさがす
 
(1)園を歩き回られる神
 そんな惨めな状態に陥った人間をあわれんで、神様はさがしに来られました。「3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。」とあります。人が神を捜し求めたのが宗教だとすれば、神が人を探してくださったことが福音です。「園を歩き回られる神」とはなんという親しげな表現でしょうか。まるで夕涼みに出てこられたような風情です。
 神は万物を無から創造された全知全能の絶対者なのですが、同時に、身を低くして私たち人間の目線にまでご自分をさげて臨んでくださるお方なのです。そのことをこの「園を歩き回られた」という言葉は示しています。ある古代教父は、このお方は受肉以前のロゴスつまりイエス様であるといいます。後に、そう処女マリヤに宿って人となっておいでになるときの予行演習のようですね。

(2)あなたはどこにいるのか
 木陰に身を隠したアダムに神キリストは呼びかけました。

3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」


「あなたたちはどこにいるのか?」ではなく「あなたはどこにいるのか?」と呼びかけられたことがなんとも印象的です。アダムと妻がいるのに「あなたは」です。神様は十把一絡げにではなく、一人に、あなたに呼びかけるのです。
 残念ながら、アダムは「あなたが下さった、この女が・・・」と答えてしまうのですが、私たちは罪に陥ったときには、一人で聖なる神様の前にでることが大事なことです。あの人が悪いから、親が悪いから、環境が悪いからという言い訳は横において、一人神の前に出ることがとても大切なことです。
  「きょう、もし御声を聞くならば、
3:8 荒野での試みの日に
  御怒りを引き起こしたときのように、
  心をかたくなにしてはならない。」ヘブル3:7,8

結び
 神、キリスト様は、私たちに呼びかけます。「あなたはどこにいるのか?」自分で自分の欲望さえもコントロールできなくなってしまった私たち人間に呼びかけるのです。「あなたはどこにいるのか?」また、自分で自分の責任さえも取ろうとしない、無責任で卑怯者になってしまった私たちに呼びかけなさるのです。「あなたはどこにいるのか?」
 神様は、今、罪を自覚したあなたにも、このように呼びかけていらっしゃるのではないでしょうか。もしその御声を聞くならば、逃げ隠れすることはしないことです。また、人のせいや環境のせいや、まして神のせいにすることはやめましょう。「はい。ここにおります。この私があなたの前に罪を犯したのです。」とお答えしましょう。
 イエス様は、あなたの罪を赦しきよめてくださいます。