苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

大相撲の奥深さ

 
 大相撲八百長問題は、もうニュースとして旬が過ぎたようである。ずいぶん前、そう311地震の前に書いた記事であるが、忙しくて新たな文章を起こせないので、これを公開する。異論反論歓迎します。
 図書館に行ったら「サンデー毎日」があって、大相撲八百長問題が出ていた。その記事によれば、北の富士がひとり横綱だった1972年初場所、前年に横綱大関暴力団とのつながりや八百長問題が取りざたされたことを相撲界は反省せざるをえず、空前絶後のオール・ガチンコ場所となった。この場所では、取り組みから異例の試みがなされた。八百長は千秋楽が近くなるころに多くなるので、その場所では最初から横綱と三役をどしどしぶつけるような取り組みスケジュールを立てた。その結果、場所は大荒れに荒れてしまう。その前二場所連続優勝していて今回も優勝確実という下馬評だった横綱北の富士は7勝7敗で千秋楽を迎えて、結局休場し、ほかの上位陣もポロポロと星を落としてしまった。優勝者は前頭4枚目だった栃東、次点にずらりと6名並んだ。
 この記事を読んで、相撲というのは、ほかの格闘技に比べて安定して勝つことがむずかしい競技なのだとわかった。そもそも相撲の基本ルールからして、レスリングや柔道と違って、土俵を割るか、ひざや手を付いただけで瞬時に勝負がつく。その上、近代相撲はスピード相撲であるから、偶然性が左右する部分がかなりあり、取りこぼしなく勝ち続けるのはとてもむずかしい。ガチンコでやれば番狂わせがしばしば起こるのはなおのことである。
 しかし、番狂わせばかりだと、番付の意味がなくなってしまう。たまには平幕優勝があってもよいが、それが常態化してしまうようでは、横綱大関―関脇―小結―前頭という、横綱を頂点とする番付の様式美はまったく無意味になってしまう。そうすると、当然、大相撲全体の興行成績によからぬ影響が出てきてしまう。だから、最終的に横綱、三役あたりが優勝するように対戦を組み合わせるのもまた興行における技術なのである。
 横綱大関はそういう意味では、特に責任が重い。横綱は負け越せば引退せざるを得なくなるし、大関は二場所負け越せば転落してしまう。横綱不在では相撲興行にもろに響くから、いったん横綱になってしまうと、横綱本人はもう限界を感じて引退したいと思っても、それも許されない。そこで、苦手な力士との対戦が決まると、横綱の付け人がその力士のもとに星を譲ってくれるように走る。横綱ともなると一番百万円単位だから出費もたいへんだ。だから横綱大関キラーの関脇・小結あたりの実力者のうちには、そういう臨時収入に味をしめてしまって、自らは大関横綱にはならずじまいという力士がいるのだとも書かれていた。横綱大関が大相撲全体のために自腹を切って星を買っているのを見て、関脇・小結あたりにいてせっせと年寄株を買って引退後に備えている力士もいるという。
 先日は、十両の転落は、その家族の生活がかかっているからたいへんだが、金持ちの横綱大関八百長厳禁と書いた。だが上のような事情を知ると、大相撲興行全体のために負けるわけにも、やめるわけにもいかない横綱というのはもっとたいへんだなあ・・と思った。でも、やっぱりカネで星を買うというのを聞くとがっかりする。がっかりするから、そんな無粋なことは報道してくれるなというのがファンの心理だろう。
 だが、わざわざお金で星を買わねばならないということが意味しているのは、逆に言えば、普通はお金を払わないと真剣勝負になってしまうということを意味しているわけである。だから、大相撲は格闘技として、そう捨てたものでもないわけである。建前(原則)はガチンコだからこそ、そうされないためにお金が動いているのだ。でなければ、横綱は毎場所大赤字になってしまう。
 もっともガチンコに徹底的にこだわる力士も少数いたそうで、サンデー毎日に挙げられていたのは、土俵の鬼といわれた初代若乃花、今の理事長の魁傑、そして貴乃花の名だった。もっとも、貴乃花若乃花が優勝をかけて同部屋兄弟対決でぶつかったときには、親方(先代貴乃花)に「あすはわかっているだろうな」と言われて、貴乃花はやむなく兄に負けてやったそうである。ガチンコが信条の貴乃花はとても悔しがったそうだ。あの一番がガチンコでなかったことは、誰が見てもわかった。なにしろガチンコを信条でやってきた貴乃花はあまりにも負け方のヘタだったのだ。だが、ともかく若乃花が勝ってよかったとみんな納得した。もし貴乃花があのとき兄貴に負けてやらなかったら、貴乃花は惻隠の情に欠く男として名横綱とは呼ばれなかっただろう。金銭のやりとりのある八百長にはがっかりだから、ファンとしてはあんまりマスコミに騒いで欲しくないが、無料・無言の人情相撲は相撲文化の一部である。このように大相撲というのは、ただの格闘技ではなく、力士の心技体と番付表の様式美とファンの微妙な心情も含めた奥深いものなのだ。