苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近世教会史6 改革派教会(3)カルヴァン

c.ジャン・カルヴァンJean Calvin(1509年7月10日―1564年5月27日)
<改革者の形成>
 カルヴァンはフランスのピカデリのノワイヨンに生まれた。父の意志で最初は神学を学び、後に、法律を学んだ。ルターの時にも述べたように、絶対王政が成長し官僚制度が整備されていく時代にあっては、法律の学びが出世を約束したからである。明治時代の日本に官僚養成機関として帝国大学が誕生したのと同じである。やがてカルヴァン人文主義的方法を身に付けにつけ、1532年パリで『セネカの「寛容について」の注解』を自費出版し、世に認められることになる。
 しかし、ほどなく神はカルヴァンを捕らえてしまう。パリにいたカルヴァンは聖書の研究を始めると、一年もたたないうちにみことばを求める人々がカルヴァンの住まいに密かに集うようになる。すでにローマ教会からのプロテスタントへの弾圧が始まっていた。ところが、パリでは、敬虔な人々が火刑に処せられるようになったので、カルヴァンはパリを去り、バーゼル(エコランパディウス召天直後)に逃れて『キリスト教綱要』の第一版を著した。その目的は、パリで殉教している人々を不正な恥辱から守り、脅かされている人々を励ますためである。「フランス王への献呈の辞」参照。
 その後、カルヴァンがブツァーがいたストラスブールへの旅の途上、ジュネーブに滞在した折り、改革者ギョーム・ファレル(Guillaume Farel1489-1565)がカルヴァンに協力を求めて宿を訪ねて来た。カルヴァンは自分は人文学者として平和に暮らすことを望んでいるからと、ファレルの申し出を断ろうとした。するとファレルはカルヴァンに呪いのことばを投げつけた。
「君は自分の願望を優先させている。万能の神の御名において君にいいたい。もし君がわれわれととともにこの神のお仕事を行なわないとするならば、主は君を罰せられるだろう。君はキリストのことより自分の利益を求めているのだ。」 「こんな重大な時にたすけを拒むならば、神よカルヴァンの平和をのろい給え」
 カルヴァンはファレルの言葉に神の御声を聞いて畏れおののき、ついにジュネーヴの改革に乗り出すことになる。当時ファレル四十九歳、カルヴァンは弱冠二十九歳であった。
 ヌーシャテルにある聖書を頭上に振り上げたファレル像は、彼の性格を象徴する。


ジュネーブでの働き>
 ひとたびジュネーヴ宗教改革に立ち上がるや、カルヴァンは鉄の意志をもってこの改革を徹底的に遂行しようとする。ジュネーヴは市を挙げて改革を志したのであり、市全体がひとつの教会だった。カルヴァンの改革は、やはり俗権と関係の深い改革であった。だが、まもなくジュネーブ市当局はカルヴァンの徹底した改革を嫌って、彼をファレルともども追放した。カルヴァンはこの騒擾から追放されて、かえって平穏な生活を送ることができることを喜んだという 。彼が、説教職の束縛から解放されて、ストラスブールに隠退して静かに暮らそうと思っていた矢先、マルチン・ブツァーが、かつてのファレルと同じようなやりかたで、ヨナの話を引用して、ふたたびカルヴァンストラスブールの説教壇に立たせた 。
 カルヴァンを追放した後、遅々として改革の進まないジュネーブは、カルヴァンを再び呼び戻すことになった。身勝手にも、カルヴァンが再び以前の地位と職務につくように求めてきたのである。
 「われらが兄弟にして類なき友なる貴殿に心からご挨拶申し上げます。貴殿がひたすら神と聖なる御言葉の栄光と名誉とを増し進めんと欲せられていることを、われわれはよく存じあげていますので、われわれに即座になすよう要求した大小議会ならびに市民総会の命により、貴殿がわれわれのところにおいでになり、ふたたび以前の地位と職務に就かれるよう切にお願い申し上げます。そしてそれは神の御助けにより福音を広めるにあたって、はなはだよいことであり効果的なことだ、と期待しております。わが民が切に貴殿を求めていることを御承知ください。われわれは貴殿にご満足いただけるようお取り計らい致す所存でこざいます。
1540年10月22日
貴殿のよき友たる ジュネーヴの市長ならびに小議会
福音の教役者、わが兄弟にして類なき友カルヴァン博士へ」
 この歯の浮くようなお世辞に満ちた手紙を読んで、カルヴァンはファレルに次のような手紙を書いている。
「印刷屋のミシェルは、私のジュネーブ帰還は実現されるだろうというブレシュレの言葉を知らせてきました。しかし毎日あの十字架に千回かけられるよりも、むしろ百回も死んだほうがましです。」
 しかし、感情に対して神を畏れる信仰の意志が打ち勝ち、カルヴァンジュネーヴに戻ることになる。再招聘の後、カルヴァンジュネーヴの教会改革を遂行する。
 ジュネーブ改革のために、なされたことの第一は聖書の連続講解説教である。説教とは講話ではない。説教とは神のことばの説き明かしである。神のことばが教会を建設する。カルヴァンジュネーヴに来た時、福音の説教はすでになされていたが、教会は無秩序の極みのなかにあった。渡辺信夫師は、こうした状況にあたって、カルヴァンがみことばが教会と生活のうちに具体化されるために行なった4つのことを指摘している。
 一つは、「教会規則」。その要点は、信徒の中から信仰の模範となる長老を選び、この人々に教会の規律を守らせること。
 二つは、詩篇歌を礼拝における会衆の讚美歌として用いること。ローマ教会では会衆は司祭たちの歌う意味不明のラテン語典礼歌の聞き手にすぎなかった。
 三つは、教理問答書による信仰教育。
 四つ目は、正しい結婚についての規則である。
 またカルヴァンは著述をもって改革を推進した。一つには黙示録を除く聖書全巻の注解を書いたことである。カルヴァンは今日に至るまで「聖書注解の王」と呼ばれる。もう一つは誰がそう呼び始めたか知らないが、「プロテスタントの兵器庫」と称される『基督教綱要』である。

 改革派宗教改革は、ルター派宗教改革に比して、一層徹底的なものであった。礼拝に関して言えば、その原理が異なっている。ルター派は従来礼拝において慣行としてされてきたことも「聖書が禁じていなければ行なっても良い」という原理に立つ。アウグスブルク信仰告白第15条は次のように言っている。「人間によって考案せられた教会の儀式について、われらの諸教会はかく教える。罪なくして守り得られ、また教会内の平穏とよい秩序とに益となるもの、すなわち特定の祝日、祭日、またそれに類するものは守られるべきである。云々・・・」。
 他方、改革派はことに礼拝については「聖書が命じたことのみをする」という原理に立っている。次世紀のものになるが、ウェストミンスター信仰告白21:1に次のように改革派の礼拝の規制原理が簡明に記されている。「しかし、このまことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示した御心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきではない。」

 ジュネーヴ宗教改革はスイスの諸都市に及んだばかりか、ヨーロッパ各地からカルヴァンのもとに神学と教会改革を学びに多くの人々が訪れ、オランダ、スコットランドからジョン・ノックス、イングランドハンガリーポーランドルーマニア、ドイツなど各地に改革派信仰が広がることになる。十七世紀イングランドではピューリタンが改革派信仰による国教会改革を志しながらついに果たし得なかったが、その余波が米国に及び米国の主流派教会となった。
 明治に日本に来たS.R.ブラウン、フルベッキ、ヘボンら宣教師たちの多くは、米国の改革派系教会の出身であったので、日本のプロテスタント教会の制度や思想は、米国の改革派系教会の伝統から多くの影響を受けている。

 スイスの宗教改革において、カルヴァンが傑出していたのは事実であったとしても、改革運動は彼ひとりのものではなく、ティームワークをもってなされた。カルヴァンは教会統治というものは、長老たちによる共同統治であるべきであると考えた。また、各地から改革派信仰は国際的なものとなっていったこともすでに述べたとおり。ジュネーヴ宗教改革者のモニュメントが群像であり、しかも、その右端にスコットランドジョン・ノックスが含まれていることは象徴的である。ちなみに左からファレル、カルヴァン、ベーズそしてノックスである。
 ただこうしたモニュメントについての筆者のごく素朴な感想を述べれば、偶像と偶像的なものを徹底的に廃したスイスの宗教改革者たちの像が、観光目的とはいえ、今日このように建てられていることは、当人たちにとっては心外なのではなかろうか。カルヴァンは死後自分が偶像化される危険を感じて、自分の亡骸を共同墓地に納めさせたという。モーセの墓が誰にも知られないことに倣ったのであろう。Soli Deo Gloria! すべての栄光を神にのみ帰する人生は、「はかなき人生」であった。
「主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」申命記34:6