苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史25 中世の崩壊

 中世の崩壊を言おうとすれば、そもそも中世というものがどういうものであり、その成立条件を述べなければならない。その条件が壊れたことによって、中世封建制社会が崩壊した。

1.経済的側面
 ローマ帝国において都ローマは後背地に、その人口を養うに十分な農業地帯を持っていなかったし、また、地中海世界の諸都市はいずれも類似の状況にあった。そのこともあって、古代においては地中海の交易と貨幣経済が発達していた。だが、ローマ帝国が崩壊し、さらに七世紀イスラム地中海世界を制圧してしまったので、地中海貿易はできなくなりヨーロッパの商業は衰退した。そのためヨーロッパの産業は、領邦ごとの農業による自給自足を基本とする封建制となった。これが中世における経済構造である。
 しかし、十字軍(1096年に第一回)の影響で、地中海貿易が徐々に回復し、中世の終わりごろになると貨幣経済が主要な社会の構成要素なる。地中海貿易によって都市のブルジョワジーが富を蓄え、ベネツィア、ミラノなど商業都市が栄える。彼らの利害は、封建領主たちの利害と衝突する。封建領主である貴族階級は、領内で自給自足することを望んでいたので、領地を通る者たちには通行税をかけたが、こうした封建領主たちの行為はブルジョワジーの交易を妨げるものだった。ブルジョワジーが望むのは、封建領主たちの小競り合いを抑制し、自由な交易が可能な大きな市場を実現する強力な国王の出現である。そこで、ブルジョワジーは国王の権力の強化を支援するようになる。
 こうして、国王は封建領主たちを抑え込むための軍事力を維持する軍資金をブルジョワジーから調達するようになる。中世後半に専制君主が中央集権政治を推し進めることができたのは、ブルジョワジーの出現と結びつきの強化と関係している。こうした歴史の流れから、近代諸国家が生まれてくる。まず、フランス、イングランドスカンジナビア諸国に中央集権国家が生まれる。ドイツ、イタリアの統一はずっと後のことである。

<十字軍→地中海貿易復活→ブルジョワ階級出現→封建領主弱体化・専制君主強化→中央集権国家出現>

2.政治的背景・・・近代諸国家出現と百年戦争と教権弱体化

 以上のような流れで国家意識というものが目醒めてくる。それまで人々は自分はフランス人だという意識はなく、それぞれが住む封建領主の支配地や、その町の出身者であるという意識を持つのみだった。私はブルゴーニュ人だとか、シャンパーニュ人だとか。明治開国まで、この列島の住民たちが日本人という意識はなく、信州人だとか薩摩人だとか長州人だという意識以外持っていなかったのと同じである。しかし、専制君主の出現によってフランス国が自覚され、その国家の民はほかの地域の人々とは異なる共通するものを意識するようになる。専制君主が出現して国家意識を強く持つようになるのは、フランス、イングランドスコットランドである。そうすると、他のまだ専制君主の出現していない地域でも、それに類似する意識を持つようになる。国王はいなくとも、スイス人、ドイツ人といった意識を持つようになるわけである。かつてサムエルの時代のイスラエルの民が王を欲したように、あるいは江戸時代末に列強に囲まれていることを自覚した列島住民が日本が強力な専制君主としての天皇を欲したように、彼らも専制君主を求めるようになる。
 このように個々の国家が伸びてくると、教皇の権限がヨーロッパ全体を支配しているという普遍主義の理念と衝突し、教皇庁を弱体化させることになる。教皇庁がフランス国王になびけば、イギリスから反発され、イギリスになびけばフランスから反発される。いずれにしても教皇庁の権威は落ち目になっていく。(それは中世神学における普遍と個物のいずれが優先するのかという普遍論争の背景であり、教会政治において教皇庁の権限と教会会議の権限とどちらが優先するかという議論の背景である。)
 中世末期14−15世紀、フランスとイングランドと、その他多くの関連諸国が戦ったのが百年戦争(1337年−1453年)である 。イングランドエドワード三世が、フランス国王の王座も自分のものだと主張し、かつスコットランドの王座も自分のものだと主張してスコットランド侵略を開始すると、フランス国王はスコットランドを支援する。そこでイングランドはフランスに深く侵攻し、フランスは危機的状況に陥る。この時代に出現したのが、オルレアンの少女ジャンヌ・ダルクである。彼女の出現と数々の戦勝によってフランスは息を吹き返したが、彼女はイングランド軍に捕らえられ、魔女・異端として生きながら火あぶりで処刑されてしまう。しかも、フランス国王は彼女を見捨てた。ともかく、フランスはカレー市をのぞき英国軍を大陸から追い出して1453年戦争は終わった。
 百年戦争の間、かなりの長い期間、教皇アヴィニョンに住み、強力なフランスの支配下におかれた。そのためイングランドアヴィニョン教皇庁を敵であると見なすようになり、対立教皇を立てるようになる。こうして教皇庁は分裂してしまう。いずれにせよ、フランス、イングランドスコットランド、そして他の地域の諸民族もそれぞれに国家主義的感情を強く持つようになり、結局、教皇神聖ローマ皇帝はヨーロッパに普遍的な権威を持つという主張は弱められてしまう。

専制君主強化→国家主義強化→教皇神聖ローマ皇帝の権威低下>

3.ペスト大流行 1347−1350AD

(1)十字軍で交易が盛んになった結果・・・
 十字軍、対イスラム戦争によって交易が盛んになったことはまた恐るべき結果をもたらすことになる。特にジェノア人がイスラム(ムーア人)を破ってジブラルタル海峡キリスト教徒の船に解放すると、交易が盛んになった。北ヨーロッパと地中海の交流が盛んになる。しかし、交易が盛んになるということは、病気の伝染も盛んになるということを意味する。
 「1347年9月、シチリアの港に、珍しい病気が出た。急に発病し、リンパ腺がはれ、ノドが渇いた。まもなく高熱で意識不明となり、肌がカラカラとなり、ついで黒紫色に変色した。発病から数日以内に、患者は死んだ。海港で出たからには、外地からの伝染病であろうと予想された。じっさい、コンスタンティノープル黒海地方で、おなじ病気が猛威をふるっていたという。
 病気は、たちまち船員から、仲間や家族にうつった。伝染力はすさまじく、人々はただあぜんとするだけだった。ペスト(黒死病/black death,peste noire)の侵入であった。
 シチリア島に始まり、ジェノヴァマルセイユへ。翌1348年には、アルプスをこえてドイツとフランスへ。そしてイングランド、スペイン、ドナウ川沿岸も すぐに感染圏に組み込まれた。血気盛んな青年も、発病すると数日内に、ときにはその日の夕方にも屍(しかばね)となった。
 ペストは、ペスト菌の宿主であるネズミが、ノミに菌を与え、ノミにかまれた人間が発病する。もっとも、そのメカニズムは、はるか後世になってからわかったことである。また、リンパ腺から肺に入ったペストは、呼吸を通して空気感染するのだ。
 1350年に、一応の終結をみるまでに、全ヨーロッパは黒死病におかされつくした。人々は恐れおののいて、神の怒りを感じ、悔恨の行列を組み、鞭で自分の体をたたいた。治療法も予防法も知れず、ひたすら祈り、そして死体や患者を遠ざけ、ところによってはユダヤ人を病気をまきちらした張本人として血祭りにあげた。」
 近年、ヨーロッパ中世の黒死病はペストでなく出血熱によるものという説が発表されているが 、実証研究によってやはりペストによるものであることが確認されている 。
 ペスト大流行は、教会にも重大な影響を及ぼす。3年にわたって大陸全体に大流行したペストで全ヨーロッパの人が三分の一死んだと言われる(2500万人くらい)。三年後には沈静化するが、以後10年ないし12年の周期で繰り返し流行する。
ペストは、黒ねずみが中間宿主となり、のみが媒介となって広がる。症状は悪寒・ふるえとともに突然高熱を出し、死亡。皮膚が黒くなるので黒死病とも呼ばれる。ペストは毛皮についたのみ、あるいは船蔵のねずみが運んできたと考えられる。
 では中世以前にはペストはなぜ大流行せず、この時期、特に大流行したのか。背景には気候温暖化の中での農業革命による大開墾がある。ペストはねずみが中間宿主である。ねずみの天敵は森に住むさまざまな獣である。ところが、11世紀から13世紀、ヨーロッパでは森が切り開かれ次々と農地が作られた。畑はねずみにとって快適な住家であるが、森の野獣たちは住めない。なぜ11−13世紀に大開墾が実現したかと言うと、農業技術の革命があったからである。中世の農業革命とは蹄鉄の使用、農耕における馬の使用、有輪重犂、三圃制農法、水車の普及のことである。

<気候温暖化→11-13C農業革命→森林消失→野ねずみ大発生(=ペスト流行の下地)>

(2)気候変動の背景
 「14世紀後半のヨーロッパには疫病の壊滅的伝播を可能とするあらゆる条件がそろっていたと言えよう.前にも述べたような中世盛期の繁栄をもたらした11世紀後半からの気候の温暖化(気温上昇と適当な降雨など)は過去のものとなり、低温と多雨、日照不足のため食糧生産は停滞し、ヨーロッパは慢性的な飢餓に苦しめられていた。」(出村p359)
 寒冷化によって民衆は劣悪な食糧事情に置かれ、公衆衛生には深刻な影響が出ていた。栄養不良に陥っていた人々はペストの餌食となった。ローマ帝国崩壊をもたらしたゲルマン民族の移動の背景に気候の寒冷化があったが、中世の崩壊の背景にも気候の寒冷化があった。

<気候温暖化→11-13C農業革命→森林消失→野ねずみ大発生(=ペスト流行の下地)→14世紀後半気候寒冷化→慢性的飢餓状態→東方からペストが来る>

(3)ペスト大流行の社会的影響         
 村や町が全滅あるいは人口の10分の9が死んでしまい、中世半ばまでの文献に出てくる町の名称や地名が、ペスト以後の中世後期には歴史上から存在しなくなっているのがしばしば見受けられる。ヨーロッパ全人口の三分の一が死ぬ。これだけ人が死んでしまうと、伝統的な社会制度や組織が維持できず、社会構造が人口減を理由に大きく変化した。
 封建的な荘園経営の崩壊がもたらされる。ペストで農業労働者が激減した結果、土地にいついた農奴が減り、領主は荘園を維持するためにやむなく賃金で農民を雇うようになり、また独立自営農も増えていく。賃金労働者の増加は、まさに農奴による封建社会の構造の崩壊つまり中世社会の崩壊を意味する。
 教会について言えば、ペストは教会関係者の死亡率が一際高かった。彼らは他の職種に比べ、多くの人と接触する機会が多く、疫病により慈善的作業が増大したのでペスト患者と接触する機会が増大したため。その補充として十分な訓練や知識を施されず、教会関係者としての意識の低い者が多数採用される結果となり、教会関係者の不正行為が増大し、教会の威信が大幅に低下した 。
 社会的上層階級が占めていた閉鎖的なギルドや市政 の運営のような組織にも、欠員により、本来なら入れるはずのない下層階級からの成り上がりが参画したりするようになった 。彼らは中世的・封建的伝統を維持するような人々ではない。彼らは、合理的に新しいことを企画していくようになる。 
 宗教的・思想的影響としては、次々に身近な人々が死ぬという状況では、知識階級のなかでも宇宙のコスモスや、宇宙の神秘を把握できるとしてきた理性に対する信頼感は薄れる。庶民にも迷信がはびこり、人生は死への備えであるという見方が一般的になる。社会には恐怖が満ち満ちていた。神学の世界では、主知主義的な「普遍」を強調する神学は力を失い、主意主義的な「個物」を強調する神学が力を持つようになる。