苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

中世教会史25 教皇庁のバビロン捕囚と大分裂―――政争の道具と堕した教皇庁

1 アナーニ事件   ベッテンソンp178
 十字軍遠征の失敗で、十字軍を提唱し推進したローマ教皇の権威は大きく揺らぎ始めていた。最後の十字軍の撤退から四半世紀後に即位した教皇ボニファティウス8世は、教皇至上主義者だった。
 他方、フランス王フィリップ4世は英国をはじめとする対外戦争で財政難を招き、その解消のためにフランス国内の聖職者に課税した。これに対して教皇は1296年の教勅「クレリキス・ライコス」で、教皇の許可なしの聖職者課税を認めない態度を示した。これに対してフィリップ4世はフランス国内の聖職者にローマ教皇庁に対する納税・献上を禁止した。1302年4月、フランス王フィリップ4世はパリのノートルダムで聖職者・貴族・平民からなる三部会を開催し、国内の諸身分から支持を集め、フランス国内の聖職者への課税を承認させ、教皇を非難した。
 対抗してローマ教皇ボニファティウス8世は、同年11月にローマで勅令「ウナム・サンクタム」を発し、ローマ教皇権の至上性を主張した。「霊的剣も現世的剣も、両方とも教会の権内にある。(中略)前者は祭司によって用いられ、後者は王や長たる人々によって用いられるが、しかし祭司の意志にしたがいその許可によって用いられるべきものである。そこで(中略)現世的権威は霊的権威にしたがうべきものである。(中略)すべての造られた人間にとって、ローマ教皇に従属することが救いのためにまったく必要であることを、われわれは宣言し、明記し、定義、発表する。」(ベッテンソンp178)
 フィリップ4世はフランス国内の聖職者をルーブルに招集し、ボニファティウス8世を異端と買官と奢侈的生活のかどで非難し、教皇としての資格に欠けると断じ、廃位を要求した。これに対して教皇は、フィリップの破門をもって応え、両者の関係は決定的になった。
 フィリップの意を受けた宰相ギヨーム・ド・ノガレは、イタリアに軍を派遣した。ボニファティウスは生まれ故郷の山間の小都市アナーニに逃げ込んだが、捕らえられた。数日で教皇は解放されたが、68歳の教皇は、この一連の事態に怒りと失望で傷心し、その3週間後に憤死した。
 この事件の結果、教皇権力の衰退と王権の伸張を印象づけ、時代は近世の絶対王政に向かっていく。次のローマ教皇はフランス王との和解を図り、事態はフランス王優位のまま収拾へとむかった。これにより、フランスではカトリックの枠内に留まりながら国家が教会を統制下におく独自の体制が形成されていくことになる。これをガリカリスムという。

2.教皇庁のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)
 ボニファティウス8世(1294−1303)が、フランス王フィリップ四世によるアナーニ事件で憤死してのち(1303)、次の教皇ベネディクトゥス11世はフランスとの和解を模索したがフィリップ四世は前教皇をさばくための教会会議開催を求めたことは拒否。悩みのうちに死ぬ。
 次の教皇クレメンス五世は、フランス国王の道具に成り果ててしまう。彼の時代25人の枢機卿を任命したがそのうち24名はみなフランス人だった。テンプル騎士団は十字軍時代に創立された武装修道会だったが、その財力と権力はずば抜けており、絶対王政を目指すフィリップ4世にとっては目の上のたんこぶだった。フィリップ4世は彼らを異端者として告発し、教皇クレメンス5世に圧力をかけた。教皇は唯々諾々とテンプル騎士団を弾圧し、彼らは無抵抗のまま逮捕され激しい拷問にかけられた。多くのものは拷問に耐えたが、わずかな者は、自分たちはキリスト教信仰に反する秘密結社であり、偶像を礼拝し、男色を行ない、十字架につばをかけているという途方もないストーリー通りの自白をさせられた。多くのテンプル騎士は終身刑に処され、全財産は没収される。テンプル騎士団の総長ジャック・ド・モレーは公衆の面前で罪の告白を要求されるが、この告発はすべて偽りであると言明し、ただちに火刑に処せられた。
 フランス王フィリップ4世の道具と成り果てた教皇クレメンス5世は、1309年から70年間、教皇庁をフランスとの国境に位置する教皇の所有地アヴィニョンに移り住む。この時期を「教会のバビロン捕囚」という。クレメンス5世は1314年アヴィニョンで没する。
 このあとの教皇たちをざっと。ヨハネス22世(1316−34)、ベネディクトゥス12世(1334−42)、インノケンティウス6世(1352-1362)、は霊的指導力なし。ウルバヌス5世(1362−70)は改革を目指すも断念。グレゴリウス11世(1370−78)は1377年1月17日ローマに帰った。
 
3.その影響と教皇庁の大分裂(シスマ)
 このシスマの時代は、百年戦争が戦われていた時代である。教皇がフランスの道具となったので、フランスを敵として国々は教皇庁に敵対意識を持つようになった。
 教皇ヨハネス22世は金儲けに奔走した。司教、大司教に叙任された者は、パウリム受領料として莫大な上納金を求められ、最初の年の聖職禄は教皇庁に権能させた。できるだけ頻繁に司教、大司教を転任させては初年度聖職禄をアヴィニョン教皇庁のものとした。かつてグレゴリウス7世の改革で改めようとした聖職売買も横行した。
 グレゴリウス7世は帰還後、まもなく死没。次に新教皇ウルバヌス6世(1378年―)が着任する。彼は身分の低い出身で、厳格な生活をしてきた人物。誰もが改革を望んでいたが、同時に、抵抗勢力も強かったので、用心深さと知恵が必要だった。しかし、ウルバヌス6世は用心深さはなく、強烈かつ急進的に事を進めようとした。不在司教制度廃止を宣言、贈物を受けた高位聖職者は聖職売買をしていると非難、枢機卿をフランスから取り戻すために多くのイタリア人を多数派としようとした。
 かくて大多数の枢機卿が反ウルバヌスとなり、新教皇クレメンス7世(1378−1394)を選出してしまった。その名はアヴィニョン時代を継承する意思の現れである。フランス、スコットランドはこのアヴィニョン在住の新教皇を支持する。このローマ、アヴィニョンに大分裂した教皇庁は一代の争いに終わらず、コンスタンツ公会議(1415−1417)で解決するまで1417年まで続く。教皇庁の威信は地に落ちた。このため諸国は、ローマ教皇庁につくか、アヴィニョン教皇庁につくかで分裂した。フランス、ナポリは当然アヴィニョンにつき、イングランドボヘミア、ドイツなどはローマを支持した。かくて中世ヨーロッパを結ぶべき教皇庁の分裂によって、中世世界も分裂してしまった。
 教皇庁はもはや自浄能力を持たないものとして見放され、教会改革への渇望が出てくる。
 このようにして中世的秩序は崩壊する。