苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

旧約のイエス その4 モーセが出会ったイエス

 「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」とイエスがおっしゃると、ユダヤ人たちはイエスを石打ちにしようとした(ヨハネ8:59)。石で人を打つなんて、いたずらっ子みたいだ。「投げていいのはボールだけ」と、妻は子どもたちが小さいころよくそう言って叱ったものである。だが、笑い事ではない。石打ちは、死刑のひとつの様態で、現在もイスラム圏で行われている。イエス様が自分は2000歳超だよと言ったからと言って、なぜ死刑にならなければいけないか?
 問題は、「わたしはいる」ということばである。日本語は時制の不明瞭なことばだから、この発言の問題性がピンと来ないが、問題はイエスはこのとき「エゴー・エイミ」という現在形を使われたことである。イエスが実際に使っていたことばは、おそらくアラム語であったから、アラム語の現在形だったろうけれど。もしイエスが「わたしはアブラハムが生まれる前からいた」というならば、たぶん「エゴー・エーメーン」とおっしゃるべきだった。なぜ、イエスは「エゴー・エイミ」と現在形でおっしゃったのだろう。
 それは、イエスにとっては、過去も未来もなく常に現在であるからである。被造物である私たちには過去があり現在があり未来がある。私たちはかつていなかったが、今はおり、やがていなくなる。被造物は時の制約の下に存在する。(ただしこの世のことだけでなく、次の世における霊の永続性を考慮すれば、「やがていなくなる」は除かれる。)それなのに、イエスは「わたしはいる」とおっしゃった。過去も未来もなく、常に現在というのは、時を超越した神以外にはありえない。イエスは自分は時を超越した神だとおっしゃったことになる。
 さらに連想されるのは、燃える柴の箇所でモーセに名を尋ねられたとき、【主YHWH】が自己紹介なさったことばである。「わたしは『わたしはいる』というものである。」(出エジプト3:14)
 自分を永遠から永遠にいます神であるとすること、これはとんでもない冒涜だった。イエスが事実、神でなかったとしたらの話であるが。だが、イエスが事実、神であるとしたら、イエスに石を投げることこそが冒涜なのだ。人は、イエスは誰なのかという問いを前にして二つに分けられてしまう。
 
 あのエマオ途上、主イエスは二人の弟子に旧約聖書を解き明かしつつ、「あの燃える柴のところでは、モーセはびっくりしてぶるぶる震えていたなあ。」と楽しげに話されたのだろうか。