苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

手をかければよいのか


    ホタルブクロ

 先日、ある経験ゆたかな弁護士が、現代の法曹育成の問題点について発言なさるのをうかがって、たいへん驚いた。氏は、「数年前から、大学を出て法科大学院を出なければ司法試験が受けられなくなった。だが、そのように法曹へのハードルを高くすればするほど、法曹の質は低下した。」とおっしゃったのである。旧司法試験の受験には年齢性別、資格不問であったが、新司法試験では法曹養成のシステムでは、質の向上を目指して育成する側はさまざまな教育的配慮をしたのだろうが、結果は逆だというのである。
 なぜ、育成する側の意図に反した結果が生じたのだろうか?今度、くわしくその方にお話をうかがいたいと思っている。筆者は、法曹養成のことは知らないけれど、教育一般について自分なりに考えたところをここにメモしておこう。
 高い位置にゴールを設定しておくだけならば、そのゴールに到達するために、人は道を自分で調べ、そこに到達するための手段を考え、工夫、努力、失敗などさまざまの経験をして苦労してそのゴールにたどりつく。その過程において自らする工夫、努力、経験、苦労がその人の実力を育てる。ところが、育成する側が、ゴールまで生徒が迷わないで到着するために、地図だの、道標だの、ついにはカーナビ付きの車まで用意してしまったら、その人はたとえゴールに到着できても、なんの実力もつかないだろう。
 これは一般の教育でもいえることかもしれない。知り合いの大学の先生が、あるとき会話のなかでおっしゃった。「文部省が、共通一次だ、統一試験だと大学受験をいじったり、義務教育をいじったりすればするほど学生の学力は低下してきた。」
 また、ベネッセとかいう会社がさかんに電子機器を使ったり、的中する定期試験対策ペーパーなどを出して、受講者がかんたんに良い点をとれるように便宜を提供している。だが、あれほど完備した試験対策に慣らされてしまうと、子どもたちは自分で工夫して勉強をしたり、記憶したりする経験をしないから、実力を身につけることができないのはあたりまえのことだ。
 伝道者育成についても、同じことが言えるかもしれない。たしかに教会に迷惑をかけたくないし、より豊かな実を結んで欲しいと思うから、先輩牧師たちは後進の育成のためにいろいろと心を砕き、プログラムを作る。それは大事なことである。だが、もし失敗しないように、迷わないように、悩まないように、と先回りするような配慮ばかりをしていたとすれば、若い伝道者は実力を身につけることはできないだろう。特に牧師という職務に関して言えば、若い日に失敗して痛い目にあい、挫折し、打ち砕かれ、悔い改め、神を見上げて涙ながらに叫んだというような経験こそが、後の日のための肥やしになるのだろうと思う。聖書を読めば、神はご自分のしもべを―アブラハムにせよ、ヤコブにせよ、モーセにせよ―、そのように育てられたことがわかる。