苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

マルコ伝 挿み込み法

 マルコ伝はダイナミックで生の証言という印象が強いとはいうものの、では粗野な書きぶりなのかというと、そうではない。むしろ、その文章の構成には工夫が見られる。たとえば「挿み込み法」である。このネーミングは筆者が勝手につけたもの。第一の例はマルコ3:21-34である。
「3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ』と言う人たちがいたからである。
  3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、『彼は、ベルゼブルに取りつかれている』と言い、『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』とも言った。3:23 そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。『サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。3:24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。3:25 また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。3:26 サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。 3:27 確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。』3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。
   3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています」と言った。3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。』3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。3:35 神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』」
 21節は内容的には31節につながっていて、22-30節はその間に挿み込まれている。このように挿み込むことによって、家の中と外とで二つのことが同時進行していることを読者にイメージさせることができる。

 挿み込み技法の第二の例は、マルコ14章1節から11節にもある。
 「14:1 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。14:2 彼らは、『祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから』と話していた。
  14:3 イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。『何のために、香油をこんなにむだにしたのか。14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。』そうして、その女をきびしく責めた。14:6 すると、イエスは言われた。『そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。』
  14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。」
 ここでは1,2節の祭司長たちの謀議の場面は、10,11節へとつながっていて、その間にベタニヤのマリヤの香油注ぎ事件が挿み込まれている。この挿み込み技法によって、イスカリオテ・ユダが主イエスを裏切って祭司長・律法学者たちの謀議の中に飛び込んだ引き金になった事件が、ベタニヤでの出来事であったということが暗示されている。イスカリオテ・ユダは、ベタニヤでの香油事件で、「もう俺はイエスにはついていけない」と激昂して祭司長たちのもとに走ったと解すべきだろう。

 挿み込み技法の第三の例は、マルコ14章53節から72節である。
「14:53 彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。14:54 ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。
   14:55 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。14:56 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。14:57 すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。14:58 『私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。』14:59 しかし、この点でも証言は一致しなかった。14:60 そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。『何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。』14:62 そこでイエスは言われた。『わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。』14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。『これでもまだ、証人が必要でしょうか。14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。』すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。14:65 そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ。『言い当ててみろ』などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。
  14:66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、 14:67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。『あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。』14:68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、『何を言っているのか、わからない。見当もつかない』と言って、出口のほうへと出て行った。14:69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、『この人はあの仲間です』と言いだした。14:70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。『確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。』14:71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、『私は、あなたがたの話しているその人を知りません』と言った。14:72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います』というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」
 ここでは、14章53,54節は66節から72節の場面につながっており、その間に55節から65節が挿み込まれている。こうした挿み込み技法によって、ペテロの焚き火の場面と、イエスの裁判の場面とが、同時進行していることが読者にリアルに伝わってくる。しかも、ここに対照的な二つの裁判が描かれていることに気付く。一つの裁判の被告はイエス、裁判官はカヤパ、もう一つの裁判の被告はペテロ、裁判官は鶏である。
 挿み込みによって、マルコは二つの場面の同時進行という状況を描いたり、二つの場面で起こっている事柄の関係を暗示したりしているわけである。