苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

汝としての神

 わたしたちは何かを知るとき、相手が人格である「私とあなた」というばあいと、相手が物である「私とそれ」というばあいとで、かかわりかたが異なっている。相手が物であるばあい、こちら側がただ一方的に対象を知ることに努めればよい。さまざまの観察機器を使ったり、実験をしたりして、客観的にデータを分析する。自然科学における対象の認識はこのようなものである。だが、このような認識のありかたは、自然科学においては適切であっても、人格を知るというばあいには不適切である。こんな知り方は、医者が患者の病状を知ろうとするばあいにはかなり有効であろうが、人が人と交友関係を結ぼうとするばあいには役に立たない。
 知ろうとする相手が人格の場合は、こちらが相手を知ろうとすると同時に、相手がこちらを知ろうとすることを、受け入れなければならない。そうでなければ、相手を人格として知ることにはならず、相手を単なる物として扱っているにすぎない。人格と人格の出会いは、主観が客観を知るということではなく、主観と主観が相互に知り、知られるということである。「我と汝」の関係といったりする。つまり、人と友だちになりたければ、自分が相手に心を開かなきゃならないということ。
 聖書にご自分の現わされた神は物ではなく、人格である。それゆえ、もしこのお方を知りたいならば、神がご自分をあらわしてくださった聖書に耳傾けると同時に、自分も神によって知られることをよしとしなければならない。神に向かって心を開いて、神に対して自分の内にある思いを打ち明けることが必要である。つまり、祈ることなしには神を知ることはできない。
 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。
 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
  私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
 私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139:23,24

 白菜の初物