苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自我の芽

 自我には二つの病的な芽があると、学生時代、赤星進医師から教わったことがある。一つは律法主義の芽であり、もう一つは甘えの芽である。律法主義の芽が病的症状を呈すると、完全主義の陥穽におちいって、うつ病になる。他方、甘えの芽が病的症状を呈すると神経症になり、その人は自分の不幸は親や環境のせいであるといいながら自己憐憫の泥沼に沈み込む。両者の表面的な症状は似ているが、うつ病は極度に自己否定的であるのに対して、神経症の方は他者攻撃的である。
 律法主義の癒しは、無条件に受け入れられること、つまり、その行いではなく存在そのものを喜ばれるという経験のなかでなされる。他方、神経症(ノイローゼ)の癒しは、本人が甘やかされず一人の人格として責任を問われ、責任を取るという経験を通してなされる。しかし、いずれの場合も人間的次元では癒しは浅いところでしか起こらない。
 神の御子イエスの十字架の出来事は、この律法主義の芽と神経症の芽を同時に抜き去ってしまう力を持つ。イエスの十字架の下で、人は自分が神の前には徹底的に責任を問われるべき罪人であることを知る。同時に、神の御子イエスの十字架の贖いのゆえに、神はこの私がいかなる罪人であろうとも、赦して受容してくださったのだと悟る。この瞬間、人の病的自我の双葉は抜き去られる。そのとき、自我のわざとしての信仰でなく、御霊による信仰が成立する。
 こんな話だった。赤星医師が引用されたのはヨハネ福音書3章の、パリサイ派の重鎮ニコデモに対する主イエスのことばだった。主イエスは言われた・・・
 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
 あの講義を聞いて、すでに四半世紀もたつが、印象深く心に残っていて、時折、思い起こす。そして、つくづく伝道や牧会は肉の力によるのではなく、御霊のお働きによるのであり、御霊の働きとは十字架につかれたままなるキリストを指差すことなのだと思うのだ。