苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

教理体系見直し4 キリストの神性と人性

4.キリストの神性と人性
(1)キリスト論論争とカルケドン会議
 カルケドン信条451年 
「されば、聖なる教父等に従い、一同声を合わせ、人々に教えて、げにかの同一なる御子我らの主イエス・キリストこそ、神性に於いて完全に在し人性に於いてもまた完全に在し給うことを、告白せしむ。主は真実に神にいまし、 真実に人でありたまい、人間の魂と肉をとり、 その神性によれば御父と同質、人性によれば我らと同質にして、罪を他にしては、全ての事に於いて我らと等し。神性によれば、万世の前に御父より生れ、人性によれば、この末の世に我らのため、また我らの救いのため、神の母なる処女マリヤより生れ給えり。同一なるキリスト、御子、主、独り子は二つの性より成り、そは混淆せられず、変更せられず、分割せられず、分離せられずして承認せらるるべきなり。されば、この二つの性の区別は、一つとなりしことによりて何等除去さるることなく、却って各々の特性は保有せられ、一つの人格と一つの存在とに合体し、二つの人格に分離せられず、分割せられずして、同一の御子、独り子、御言なる神、主なるイエス・キリストなり。げに預言者等が、昔より、彼につきて宣べ、また主イエス・キリスト自ら我等に教え給い、聖なる教父等の信条が我等に伝えたるが如し。」(東京基督教研究所訳)
 キリスト論争の結論とされるカルケドン会議において、キリストのうちにおいて「神性と人性が一つの人格となって存在している」というテルトゥリアーヌスの定式が確認された。カルケドン会議は、神性を極端に強調する学派と人性を極端に強調する学派を退けた。神性を強調するとキリストを霊であるとするグノーシス主義に陥り、人性のみを強調するとイエスをただの愛の教師とする謬説に陥るという問題だった。
 イエスの神性が本物だったことを否定するエビオン主義とアレイオス主義。
 イエスの人性が本物だったことを否定するドケティズムとアポリナリオス主義。
 二性二人格を唱える「ネストリオス主義」。だが、実は、ネストリオスを異端と認定したのはキュリロスと教会のまちがいであった。「ネストリオス主義」という異端の教えは、ネストリオス自身の教えではなかったし、彼が設立してはるか中国にまで伝わった景教の教えでもない。ネストリオス自身と景教キリスト教は、アンテオケ型の正統的なキリスト教であった。(詳細は、ジョン・M・L・ヤング『徒歩で中国へ』(イーグレープ2010年)の5章、6章を参照せよ。)
 神性に人性が混じる、吸収されるというエウテュケス主義(これは西方側の解釈であって、主唱者はそうではないとする)。
 カルケドン会議の結論を拒否したシリヤ正教、エチオピア正教コプト正教、アルメニア正教は、エウテュケス主義とされ、その後、長きにわたって非カルケドン派と呼ばれ異端視されることになったが、ごく近年ローマ教会は和解した。筆者は詳細をまだ検討していないのであるが、エウテュケス主義が言わんとしていることは、人性はそもそも神性の写しであるということに基づいていて、本来異端にあたらないのではないかと、見当をつけている。

 西方教会の流れのなかに身を置く筆者は、当然カルケドン信条を重んじるのだが、筆者としては、「人性」と呼ばれるものを創造論まで立ち返って考え直すべきなのではないかと思う。創造論まで立ち返って見れば、人性というものは、「神のかたち」である御子の写しなのである。むろんその人性は罪に汚されていない人性である。そもそも人性というものは「神のかたち」(キリスト)の写しであるから、「神のかたち」なる先在のキリストと人性とはとてもよく似ているものなのである。では、どこが違うかといえば、最も包括的な言い方をすれば、無限性と有限性の違いである。「神のかたち」である御子は無限であり、写しである人性は有限であるという点で隔たりはある。しかし、人性は「神のかたち」の写しであるという点において、類似性がある。
 受肉についてのたとえ話として、ときどき、神が人となられたということは、あたかも、人間がゴキブリになったようなことなのですという説明を聞くが、これは不適切であろう。人間は「神のかたち」の写しであるが、ゴキブリは人間の写しではないからである。西方教会の伝統には、神の超越性と人間の罪を強調するあまり、神と人との類似性を軽んじる傾向があるので、このような誤った譬えが生まれたのだろう。
 我々としては、キリストの二性一人格について考察するにあたっても、神と人との間には無限と有限という質的隔たりがある事実とともに、本体と写しという類似性があるという事実をも見失わないことがたいせつである。そうでなければ、救いの歴史における御子の受肉という出来事があまりにも唐突な出来事となってしまう。本来人は「神のかたち」であるキリストの写しとして造られながら、そこから堕ちてしまったから、「神のかたち」である御子は、私たちを本来の姿に戻し、かつ新しく創造するために、ご自身が人となってこられたのである。
 M.エリクソンは言う。「しかしながら我々は聖書から、神がご自分に非常によく似た被造物のうちに受肉することになることを選択なさったことを知るのである。人類をご自分のかたちに創造する目的の一部がやがて起きる受肉を容易にすることにあったことは十分考えられる。」(キリスト教神学第七部キリストの人格35章)

追記
 「ネストリオス主義」(二性二人格説)は誤解・捏造された異端であり、ネストリオス自身と景教は正統的アンテオケ学派である。

 詳細は、ジョン・M・L・ヤング『徒歩で中国へ』(イーグレープ2010年)の5章、6章を参照。
a.異端「ネストリオス主義」=「二性二人格」説は伝統的誤解である
コンスタンティノポリス総主教ネストリオスはアンテオケ学派だった。彼は、マリヤを「テオトコス(神を生んだ人)」と呼ぶことを拒否し、「キリストトコス(キリストを生んだ人)」と呼ぶべきだと主張した。この主張の意味は、マリヤではなくイエスを問題としたのである。マリヤを「キリストを生んだ人」と呼ぶべきだというのは、イエスの人性を強調するためであった。逆にテオトコスはイエスの神性の強調であり、アレクサンドリア学派では一般的だった。
 アレクサンドリアのキュリロスは、「ネストリオスは、イエスの内には「神と人という二つの本性と二つの人格が存在すると主張した」と主張し、431年エペソ公会議でネストリオスは異端とされた。 
 ところが、対抗会議をネストリオスの支持者ヨアンネスが開き、キュリロスに異端宣告をした。そこで皇帝テオドシウス二世が介入し、433年「一致定式」でキュリロスとヨアンネスが合意したものの、ネストリオスは異端とされて追放された。

●キュリロスの批判した「ネストリオス主義」=二性二人格説
「聖処女マリヤはキリストの一つの性質の母にすぎず、キリストの人格全体の母ではない」、「マリヤは神の言葉である方を産んだのではなく、人間イエスを産んだ。この人間イエスは神の言葉を容れる神殿で、王を容れる生きた王衣であった。」「受肉した神は苦しまず、死なず、死者の中から引き起こされた。そのお方の中に受肉しておられた・・・キリストにはなるほど二つの性質があり、一人の人格がある。しかしよく注意するとこの二つの性質はあたかも二つの人格であるかのごとく語られている。そしてキリストに関する聖書の言葉は、ある部分は人間のこと、他の部分は神としてのキリストのことというふうに分けられている。」とネストリオスは教えているというのが、キュリロスによるネストリオス非難の内容である。
 そのまとめは以下の通り。

エペソ会議(431年)で異端とされた「ネストリオス主義」
1.ネストリオスはキリストの神性と人性とを区別しようとしてイエス・キリストの中に二人の人格が存在するとしている。
2.マリヤをテオトコスと呼ぶことを拒否している。
3.受難し、十字架につけられたのは人間イエスであって、ロゴスではないと主張している。
4.ロゴスがマリヤを通して肉体を与えられ、人となったことを拒否している。
5.イエス・キリストにおいて神・人の二性の合一は外部的なつながりによる(道徳的一致である)と主張している。
6.二人の神の子がいる。一人はもともと神で人間を来た。もう一人は人の子で、神のものとなり用いられた。

b.真相:ネストリオスと景教はアンテオケ型正統キリスト教である
 騒動終結後、ネストリオスは追われる形でエジプトへ亡命。ネストリオスに従う人々は波斯ルシャで別に教会を建てた。これが唐の時代の中国にわたって景教と呼ばれる。その流れを引くのは、アッシリア東方教会Holy Apostolic Catholic Assyrian Church of the Eastが継承している。こちら参照 
http://assyrianchurch.org.au/
ネストリオスはエジプトの修道院で隠遁生活を送ったが、死の直前にあたる450年には『ダマスコのヘラクレイデス論』を著した。この書は、19世紀末に発見され、1910年 に刊行されて、ネストリオス研究に変化をもたらした。近年の研究によれば、実は、ネストリオスを異端と認定したのはキュリロスと教会のまちがいであった。彼らが非難し否定した「ネストリオス主義」という異端の教えは、ネストリオス自身の教えではなかったし、彼が設立して中国にまで伝わった景教の教えでもない。ネストリオス自身と景教キリスト教は、二性一人格に立つアンテオケ型の正統的なキリスト教であった。
 証拠は下のとおり。
☆ネストリオス自身の教え=景教=正統的アンテオケ学派=二性一人格
 ネストリオスは「マリヤにテオトコスという呼称を使用するのは罪ではない。なぜなら神の言葉である福音は『キリストは生まれ給うた』と言っているからである。」と述べている。「もしあなたが素朴な信仰からテオトコスというなら、それをとやかく言ったりはしない」、「だが決して処女マリヤを神格化して女神にしてしまわぬように」と添えている。
 ネストリオスが弁明書「バザール」で述べていること
1.キリストにおいて人性と神性の二つが「自然な結合」を遂げていると考えるのは正しくない。もしそうだとすれば、それら二つの性質は、それら以外の創造者がすでにいて、その結合を生み出したということになる。
2.受肉は神性を人性に転換して起こるもの、または逆に人性を神性に転換して起こるものであるとする説に反対する。また受肉とはそれにより第三の何らかの存在が生じることであるという思想も否定した。
3.神は聖徒のうちにも宿り給うが、キリストのうちの神性もそのようなものである、という思想を拒否した。
4.キリストの人性、または神性のいずれかをフィクションであるとし、また幻想上のことがらであり事実であるとする説を拒否した。
5.受肉はキリストの神性に何らの変化も及ぼさないとした。また『神的なロゴスであるお方」は不変であるので苦難にあわれなかったとした。
6.キリストにある二性の合一が「子としての神」のうちに何らかの二重性を生じるという思想は拒否した。
7.キリストにおいて神性と人性が結合したのは両性の自発的な意志によるものである(訳注・何らかの外部の意思や法則にしたがってのではない)と主張した。
8.神・人の二性の結合の力は人性と神性それぞれの人格の中にあり、これらが合一して受肉して、キリストの一つの人格となったと主張した。
9.以上の8点がみたされてこそ真に受肉が成立するのであり、贖いの信仰が可能となり、また教会の礼典のための理論的支柱となるのである。

 ヤングによれば、「彼(ネストリウス)は常に、キリストの中に二つの人格があるという思想を拒絶している。一人のイエス・キリストという人格の中に神人二つの本質が混合や混乱なしに結合されているのであり、この結合はいかなる愛や親しさによる倫理的結合よりも親近性が強く、その結合の親密さのために神・人どちらの本性の属性であってもイエス・キリストの人格のものであるといえる。それがネストリウスの思想である。ネストリウス本人はいわゆる『ネストリウス主義者』ではないことが明らかであり、彼の反対者が言っているような人間でないことも明白である。」




 アヤメ