制度は発足したが、自らが裁判員となって、被告の有罪・無罪を判断し、量刑をするということに、非常な抵抗感を覚える人々も相当数いることは容易に想像できる。特に自分が参加した裁判によって、一人の人が死刑にされる場合、自分が人を殺したことになると考えると、そんな責任は負いきれないというふうに感じる人がいるであろう。人間が、全知の神ではなく、有限な知識しか持ち合わせない者であることを考えると、誤審・冤罪を免れることはできず、誤審によって他人の人生を狂わせたり、その生命を奪ったりすることになるのだから、恐怖や抵抗を感じるのは当然であろう。かりに誤審の可能性はほとんどないケースの裁判であったとしても、死刑判決の場合には、裁判員は重荷を負わねばならないだろう。
しかし、裁判員制度が存在しないこれまでであっても、社会の一員である以上は、私たちは社会秩序を維持するために、自分のやりたくない「血なまぐさい仕事」を司法に携わる人々に代行してもらってきたわけである。代行してもらっているということは、実は、自分もその仕事をしていたのである。ただそれを他人事のように思って、自覚していなかっただけである。江戸時代には、首切り役人がいて、そういう人々はえてして差別の対象とされていた。そういう差別は見当違いであって、自分のしたくないことを代行していただいて、申し訳ないと考え、感謝すべきなのであるが。今日でも死刑制度が維持されるためには、死刑執行の務めを担わねばならない人が存在し続けなければならないという現実がある。そういえば、数年前死刑執行にあたる刑務官の葛藤を描いた『十三階段』という小説を読んで、この問題の深さを思い知らされたことがある。
旧約聖書には、死刑の方法として、全会衆が犯罪人を石で打ち殺すという方法が取られたという記述がある(民数15:36など)。なんと野蛮なことかと軽々しく即断しがちであるが、私は『十三階段』を読んでから、全会衆による石打ち刑という方法の意義を悟った。全会衆による石打ちの刑は、特定の人にそういう「血なまぐさい仕事」を押し付けてしかも感謝するどころか差別するというありかたよりも、この点にのみかぎっていうならば、賢明な方法であった。石打ちの処刑に自分が参加するとき、人は、社会秩序を維持するために、自分も責任があるのだということを自覚せざるを得ない。裁判員制度には、それに通じる部分がある。