毎日新聞の「宗教二世」に関するヤフーコメント欄を読むと、統一協会の宗教二世をめぐって、日本人が「信教の自由」の意味がわかっていないことに暗然とする。多くの日本人が単に「信教の自由とは何を信じようと勝手だ」という意味だと思い込んでいるのだ。
そもそも自由は、「何からの自由」であるかを明示しなければ、無内容である。近代憲法における「自由」とは国家権力の束縛からの自由を意味する。「信教の自由」「思想信条の自由」とは、キリスト教・仏教・無神論・イスラム教その他どういう宗教を持つか、どういう宗教教育を子どもにするか、どういう思想信条を持つか、どういう思想信条を子どもに伝えるかについては、国家は国民を強制してはいけないという意味である。憲法は国家の暴走を規制するためにこそある。
このことを知らない人たちが、親が子どもに自分の信仰を伝えることは信教の自由の侵害だから、国家が親を規制する法律を作れなどという恐ろしい主張をし、多くの「いいね」ボタンが押されている。国家が、家庭の中に入り込んで、思想信条・信仰について強制力を働かせることが、どれほど恐ろしいことか、何もわかっていないのである。
先の戦時下、国民は神社参拝を国家権力によって強制され、教育勅語で洗脳されていた。その犠牲者は天皇万歳!と叫びながら死んだ何十万人の若者である。 また現在、C国では宗教条例によって、すべての宗教のC国化を図っている。信仰義認の教理の説教、終末論の説教を禁じ、18歳未満に対する宗教教育を禁じている。それがC国の思想統制の邪魔だからである。
国家が国民の心を支配し家庭の中までも支配することは恐ろしいことである。そうした国家権力の横暴を規制するためにこそ、近代市民の権力に対する戦いがあった。憲法における「信教の自由」「思想信条の自由」「集会結社の自由」「職業選択の自由」などの自由権はその成果なのである。
統一協会を規制したいのであれば、その犯した詐欺罪などについて現行法で処罰すればよいのであって、その教義にまで国家が立ち入ることを許すならば、それは戦前の忌まわしい国家総動員令下の宗教団体法と同じことになってしまう。
「十字架のことば」は愚かである・・・・「包括的福音理解」への疑問
伝道とは、共通恩恵の器に特別恩恵をいれて渡すことです。しかし、伝道のためには他のことはその手段と考えればよいと主張しているわけではありません。そのような姿勢は、神の御心にもかなわないと思います。福音を伝えることは、確かに人々を永遠の滅びから永遠のいのちへと招く尊い愛のわざですが、それが至上命令であるからといって、伝道のためには他の営みはなんでもその手段として考えてよいわけではありません。そういう伝道至上主義の考え方をすると、伝道に役に立たないことはすべて無意味だということになってしまうでしょう。もし路上生活者のための炊き出し支援といった働きを、単に福音を伝え教会を数的に成長させるための手段であると考えるならば、これほど効率的でないからやめてしまえということになりかねません。
むしろ、こうした社会的奉仕は、神の文化命令に対する応答として、神の前で固有の価値があることだと考えるべきだと思います。神は、伝道に固有の価値があるとされ、また、社会奉仕にも固有の価値があるとされているのです。伝道にも社会的奉仕にも領域主権があるのですから、片方を他方に還元してはなりません。伝道はキリスト者に対するご命令ですが、神のみこころにかなう文化を形成していくこともまた、キリスト者のもう一つの務めです。飢えている人々を放置するような社会は、神のみこころにかないませんから、炊き出しが伝道に役立とうが役立つまいが生活困窮者を助けるべきなのです。
しかし、他方で社会的な働きに熱心になるあまり、キリストの十字架の福音を曇らせる場合もあるように思います。私は、東日本大震災後、福音派でしきりに言われるようになった「包括的な福音理解」という表現は危険であると思っています。安易に福音の意味を拡張することで、社会的な隣人愛の実践をすることが福音宣教なのだと主張して、キリストの十字架の福音を見失っている場合があるのではないかと懸念するのです。聖書がいう福音とは、「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」(使徒20・21)であり、「キリストは・・・私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(1コリント15・3,4)であり、「十字架のことば」(1コリント1:18)です。
特別恩恵の働き「十字架のことば」の宣教と、共通恩恵の働きとしての社会的奉仕との間には大きな違いがあります。それは社会的奉仕は共通恩恵なので、世間の人々の目にも価値あることとして映り表彰状をくれたりすることもありますが、「十字架のことば」の宣教は特別恩恵なので世間の人々の目には愚かなこととして映り、時には迫害されることもあるということです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(1コリント1・18)使徒パウロは表彰状をもらわないで、弾圧されました。
私たちは神から文化命令を与えられていますから、神のみこころにかなう社会正義の実現のために働くことは良いことであり、固有の価値のあることです。しかし、社会的奉仕に励み世間から称賛を得たからと言って、伝道者はそれでキリストの福音を伝えたことにはなりません。福音の宣教は、世間からあざけられても迫害を受けても「十字架のことば」を宣べ伝えることであり、「神に対して悔い改め、主イエスを信じさない」と語り続けることなのです。
受けるより与える方が幸いである
昨日、娘が結婚をしました。司式者は牧師である私です。式の直前、着替えてきた娘が「お父さんへ」という手紙を渡してくれました。「あとで読んでね。」と言って。
ここ数日、娘の結婚が幸いであるようにと祈りつつ思いめぐらしていると、「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:35)というみことばが胸に浮かんで来ては離れないので、式の中でこのみことばを二人に贈りました。
神様がこの悲しみに満ちた世界にクリスチャンホームを誕生させる目的は、二人が「僕たちは幸せだね」と自己満足するためでなく、寒さに震えている人を暖め、傷んでいる人の傷をかばうためなのだということです。
なぜ巡り逢うのかを 私たちは何も知らない
いつ巡り逢うのかを 私たちはいつも知らない
どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 二つの物語
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを暖めうるかもしれない
ロダが危なかった件
昨晩、うちのわんこのロダが床ですべったとたんに息ができない状態に陥りました。すぐに短くお祈りして、おそらくはずみで痰が気管に詰まったのではないかと思い、さかさまにしたりしてブンブン振りました。なかなか意識が回復せず、口から泡がでてきて、さらに続けること2分くらいかな、とても長く感じましたが、ようやくふーっと息をして死を免れました。そのあと、部屋の中をウロウロウロウロして、外を歩きたいようすなので、散歩に連れて行きましたが、帰って来てなおウロウロしていて、バタンキューで寝てしまいました。しばらく寝た後、起きてご飯を食べて、また寝ました。
あーびっくりした。
けさは元気になって、朝ご飯を食べてました。ロダさんはもう18歳。